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私が複雑性PTSDのNPOを作りたいと思った理由


はじめまして。
加納由絵かのうよしえと申します。

複雑性PTSDの当事者支援団体
お話カフェゆもりな」代表を務めています。

団体の形態は、ぴあサポート。

私を含めたスタッフ5名と
ボランティアスタッフ5名で
運営しています。

ピアサポートとは、同じ経験をした人が、同じ経験をした人のサポートをする活動のことです。例えば、ある子が勉強で苦しんでいるとき、同じく勉強で苦しんだ先輩が助けてくれるのがピアサポートです。自助は、経験者同士の支えあい。ピアサポートは、経験者や専門家のサポートも交えて行われる支援のことを指します。例えば、ある子がいじめに悩んでいるとき、いじめ経験者や専門家がサポートしてくれるのがピアサポートです。

私たちは
上智大学グリーフケア研究所
武蔵野大学

かなしみ(悲嘆)について
臨床実習などを含め
数年間の学びを経て

それぞれの経験を通じて得た
知識と経験を活かし
当事者の方々に寄り添いながら
サポートを提供しています。

毎月、会場やオンラインで
複雑性PTSD当事者の茶話会
開催したり

複雑性PTSD講座や無料の
オンライン相談会を開催しています。

私の活動は
子ども時代に心の傷付き経験をした
大人の複雑性PTSD相談です。

虐待というと
子どもの被害というイメージが
強いと思います。

でも、世の中には
大人になっても
子ども時代の逆境経験の影響で

人間関係が苦手だったり
謎の体調不良が続いたり

気力が出ず
いくら病院に通っても
なかなか回復せず

満足できる社会生活を送れずに
「生きづらさ」に悩んでいる

すでに成人している
過去の子ども達が
まだ、大勢いるのです。


虐待というと
どんなイメージが浮かびますか?

親から殴られたり
食事をさせてもらえなかったり
愛情を持って育ててもらえない。

そんなイメージが
強いのではないかな?と
思うのです。

虐待というキーワードは
とてもインパクトが強いので

見ているだけで
なんだか

とても嫌な気持ちになることも
ありますよね。

思わず目をそむけたくなること。
それが「虐待」だと思うのです。

機能不全家庭とは?


機能不全家庭という言葉が
昭和の頃に
大流行しました。

これは
アダルトチルドレン
という概念が
日本に入ってきた頃。

1960年代。
斎藤学先生で有名ですね。

でも、冷静に考えてみると
「機能が不全ではない家庭」って
この世に実在するのでしょうか?

ついこの間まで
世界的に影響していた
感染症の問題で

悩んだり苦労したり
困った経験がある方は
多いと思います。

親が悩んだり
苦しんでいる姿。

その親を
誰も助けてくれない環境。

それが
「虐待」の本当の意味です。

機能不全な家庭や
未熟な親の正体は

誰にも助けてもらえず
情緒不安定になっていた
人間の姿。

その姿、その状態のことを
グリーフ(悲嘆)
といいます。

機能不全家庭とは
未解決なグリーフを
内包している家庭のこと。

あなたが、もし
子ども時代に
家庭の中で息苦しい思いを
していたのなら

それは、家庭の中に
未解決なグリーフが
内包されていたからです。


自己紹介


簡単な自己紹介をさせてください。

私は、1964年生まれ。
前回の東京オリンピックの年に
東京の下町で生まれ育ちました。

私の父は
天台宗の僧侶でした。

なので、私は「お寺の子」

父は、住職だった父親を
踏切事故で亡くしました。

母は、お嬢様育ちでしたが
やはり父親を交通事故で
亡くしました。

私の両親は、ともに交通遺児。

そして、日本の戦争によって
人生に大きな傷を負った
トラウマ持ちの夫婦でした。

でも、両親の世代は
トラウマという概念や
虐待、DVなどの
概念がない頃の人たちなので

自分たちが
なぜ、そんなにつらいのか
理解できないままに
毎日必死に暮らしていました。

私の父は
今の価値観でいうのなら
DV加害者で過干渉な親。

私の母は
コンプレックスが服を着て
歩いているような
自己価値観の低い人。

そして
私が求められたことは
「良い娘」でした。

たったそれだけ。

それが、どうして
虐待なのか?と
人から言われます。

殴られたり
食事を与えられなかった
わけでもなく

学校も私立の女子校で
習い事もたくさん。

良い服を着て
情操教育も豊富。

そんな幸せを絵に描いたような
あなたが、どうして
被虐待児なのか?

そう言われ続けたし

私自身も
「絶対に、ツライなんて
口が裂けても言えない」と
心のフタを閉じていました。


8歳の頃。
イジメと性被害を受けたこと。

その後も
大人になってから
やはり同じことが
繰り返されたこと。

誰にも言えない。
誰にも言うまい。

そう思っていました。


なぜ?


それは、たぶん
すべてが壊れてしまうと
そう思っていたから。

そして、話したところで
何も変わらないと
実体験の中で
あきらめていたからだと思います。

私は、ある日突然
家を失いました。

被災ではなく人災で。

高校生。15歳のとき。

寺の中で生活していた
私達家族は

住職の伯父夫婦に
子どもができた頃
突然
出て行けと言われました。

ずっとお寺の子として
生きてきて

寺の人間であることが
私の唯一の誇りでした。

お線香に火を付けて
しきびとお花を持って
お墓参りに向かう
お檀家さんをお見送りして

お参りから
戻って来られた
お檀家さんに
お茶とお茶菓子をお出しして

亡き方を思い
一緒に思い出を語る
寺の人とお檀家さんの
静かで穏やかな

悲しくあたたかく
懐かしく優しい

あの時間の流れる様を
見ていることが
私は、とても好きでした。

あの時間が
グリーフケアと呼ばれる
時間なのだと知ったのは

それから
30年以上経ってからのことです。


お寺の子という
アイデンティティを失ってから

私は、自分がこの先
何をして生きて行けば良いのか
わからなくなりました。

まだ、16歳。

でも、大人達の
ドロドロとした確執は
何も言われなくても感じるので

「寺の人間でいたかった」とは
結局、この歳になるまで
誰にも言えませんでした。

人からすれば
「たったそれだけのこと」

そう。
たったそれだけです。

でも、なぜでしょう。
あれ以来、私は人生の軌道が
狂い始めたのです。


トラウマ症状が現れ始める


私は、中学の友人の影響で
声優を志すようになりました。

私は、勝田声優教室(勝田声優学院)の
第1期生でした。

当時、ニッポン放送で主催していた
アマチュア声優コンテスト」という
イベントがあって

私は、28,560人の中で
決勝を勝ち抜き
グランプリを獲得しました。

夜のドラマハウスにも
出演することができ
少しずつ、業界で
仕事ができそうになっていたとき

父の反対で
あっという間に失業。

スタジオに父が
怒鳴り込んできてしまい
それまでの苦労は水の泡でした。

私は、人の目が
とにかく気になりました。

自分がどう見られているだろう。
私は、人にどう思われているだろう。

そんなことばかりが
いつも頭の中を
グルグルしていました。

外出するときも
「そこにふさわしい服装」で
出かけるために

その街のスナップ写真を
とにかくたくさん調べて

馴染めるように
浮かないようにと
必死になっていました。

でも結局
そんなことをしている間に
疲れてしまい、予定はドタキャン。

いつもイライラしていて
いつも誰かに
見下されているような気がして

「お前ごときが!」
という罵声が
いつもどこかから聞こえてくる。

こんなことを言ったら
なんだか統合失調症ですか?
と言われそうですね。

でも、そういうことでは
ありませんでした。


良い人間を演じる日々


私は、26歳で結婚して
30歳目前で母親になりました。

結婚してすぐに
子どもができるものだと
思っていましたが

私たち夫婦は
不妊カップルだということが
検査でわかり

そのとき、私は
「欠陥品カップル」のレッテルを
世間から貼られることに
どこか、恐怖していて

とにかく、なんとしてでも
子どもを授かりたい!と
ムキになって
ありとあらゆる治療を受けました。

そして親になってから
ハッとしたのです。

「親になる自信がない」


自信のない私を
実家の両親は
あおり続けました。

「お母さんのくせに!」
「どうして、そんなこともできないの!」
「そんなこと生まれる前に準備しておくのが常識!」

責められる。
叱られる。
誰も助けてくれない。

私は、毎日
「母親失格」の自分と
一緒に生活をすることになりました。

不妊治療や
この育児期間が

私のトラウマ症状に
スイッチを入れたと
今では思います。

その後、私は
精神的に不安定になり

育児に自信が持てず
でも、表向きは見栄を張り

いきがって
なんでもないフリを続け

昔の母と同じように
周囲の人たちを
見下すことで自分のバランスを保ち

体調を崩しては寝込み
家事もろくにできない

そんな日々が続きました。

そのうちに
生きていることが苦痛で
楽になりたいと思うことが増え

何度も薬を大量に飲んでは
精神科の入退院を繰り返す。

一般病棟も閉鎖病棟も
ひと通り経験済みの
正真正銘の精神疾患患者になりました。


心の勉強をはじめて


どうしようもない
自分の状態を
少しでも改善したくて

私は、カウンセリングの
勉強をするようになりました。

はじめに通ったのは
認知行動療法の専門学校。

その後、不妊当事者のNPOで
ピアカウンセラーの研修を受け
資格を取りました。

そのときに指導してくださった
心理士の先生から
「不妊は、グリーフだよ」と
教えられたときに

初めて「グリーフ」という
言葉を知りました。

その後、私は
グリーフについて学べる場を探し
グリーフケア研究所の公開講座を知り

私の人生の迷路は
ここで終えられるかもしれないと
そう信じて

翌年の春。
上智大学グリーフケア研究所を受験。
無事、合格することができました。


引きこもり主婦から複雑性PTSD支援者へ


私は、グリーフケア研究所で
たくさんの学びをいただいたのち
臨床傾聴士という認定資格をいただき

その後
研究所の修了生の有志の仲間と
「お話カフェゆもりな」として

子ども時代の心の傷
家庭内の未解決なグリーフの影響で
今でも悩み苦しんでいる当事者の方々の

ぴあサポート活動を
任意団体として
東京都を拠点にスタートしました。

あの頃、私が欲しかった
安心して自分の気持ちを
話せる場所。

自分の言葉で
うまく説明できなかった
あの生きづらさを

言葉で明確化してもらえる
その心地良さと安堵感。

「あなたは、悪くない」
「あなたのせいじゃない」

やっと、ゆるされた。
これでやっと楽になれる。

そんな場所を
私は作りたかったのです。

これまでの6年間の
ゆもりなの活動と

過去の個人の支援活動の
経験の中で

現在、私の支援提供に
ご登録くださっている方のリストは
2000名に近付いています。

この12年の間に
担当させていただいた
ご相談の件数は2万件を超えています。

ご利用くださった方々の声は
こちらのご感想にあります。

お客様の声


これからのこと

ゆもりなの活動を
約6年続けてきました。

個人での支援提供活動は
今年で12年目になります。

そして、時代が流れ
私たちの支援提供の環境も
少しずつ変化してきました。

今まで
私たちは、東京都の
公共施設の会議室をお借りして
茶話会や当事者研究会を
開催してきました。

でも、複雑性PTSDの症状は
体調の波が大きいので

いつも予定通りに動けるとは
限らないのです。

せっかく勇気を出して
予約を入れた茶話会の日に
体調不良で行けなくなり

人生を取り戻すための
大切なきっかけの時間を
失ってしまう人も
少なくありませんでした。

また、来月予約すればいい。

それは、元気な健康な人が
思うこと。

私たち、複雑性PTSDで
悩み苦しんでいる状態では

自分の体調コントロールを
自力ですることは
とても困難なことですし

自己コントロールを
できなかったことが

さらに自分責めの素材になってしまい
症状が悪化してしまうことも
少なくありません。

それなら
いつでも気軽に体調の良いときに
フラッと立ち寄れる
そんな場所があれば!

それが、私が
ゆもりなをNPOとして
組織化することで

安心できる
居心地の良い
トラウマインフォームドケアを
提供できるスタッフと共に

複雑性PTSDの方々の
心の拠り所になる

そんなカフェを
運営したい!

そう思ったのです。

これから、NPO設立に向けて
実際にあったことや
その軌跡をこの記事で
記録していきたいと思います。

お話カフェゆもりなは
私が子どもの頃に失った
私のアイデンティティーを
取り戻す場所。

私の夢。
ライフワークを
実現する場でもあります。

ウチのカフェを
見つけてくれてありがとう。

あなたのお話し
ゆっくり聴かせてください。

まずは、美味しいお茶をどうぞ。
スイーツもありますよ。

そんな場所を作りたいのです。

バイオレンスだけが暴力じゃない。

本当の暴力は
奪われること。
踏みにじられること。

その痛み(グリーフ)を
知っている人に

埋まらない気持ち(グリーフ)を
経験したことのある人に

安心して
本当の自分でいられる場所を
ご提供したいのです。

これから少しずつ
更新していきます。

どうぞよろしくお願いいたします。



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