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言葉あれこれ #8.5 かなしいといとしい

 昨日の記事に、年を取るのは厄介だが愛おしい、と書いた。

 できなくなることはマイナスのことでしかないはずなのに、愛おしいとはこれいかに?
 そう思った方もいらっしゃったかもしれない。

 私は、できないことをいつまでもできるはずと思い続けるのは、あまり好ましくないことだと思う。自分や周囲を苦しめてしまうし、なにより新しい世界に踏み出せない。

 努力すればできることは別だ。
 明らかに修練や鍛錬が足りずにできないのであれば、可能な限り向上しようと精進すべきだし、何が原因で出来ないのかを考えて工夫し、改善していくのが望ましいと思う。
 「のびしろ」が多いか少ないかは別として、いったんは力を尽くしてみる、ということは大切だ。

 だがしかし、頑張ってもできないことというのは存在する。

 私は幼いころから目が悪いが、これは遺伝で、眼鏡などで矯正することなしに物を見ることはできない。

 小学生の時、母が「視力回復センター」というところに私を連れて行ったことがある。昭和の昔には、「近視は訓練で治る」と謳う商売があったのだ(確かに近視の種類によっては実際に改善する例はある)。
 母は私の視力がどんどん悪くなっていくことにおののき、すがる思いでその施設に駆け込んだ。

 毎回視力検査をして、近くを見たり遠くを見たり、怪しい電波を当てたりしたが、私の視力が改善することはなかった。
 回復の兆しなしと知った母は、ついに諦めた。

 その後私は網膜剥離もうまくはくりを患い、ただただ「光あることだけで素晴らしい」と思うに至った。それから40年ほど、強度近視で視力としては不自由だが、無事に光を享受して生きている。

 時間やお金をかけても元に戻らないことはある。
 アンチエイジングの技術は確かに進んでいるが、それでもまだまだ、老化はどうしようもないことのひとつだと思う。
 時間は不可逆だ。

 年を取り、私たちは様々なことを失っていく。
「諦める」ということが、必要になる。

 諦める、ということはネガティブに捉えられることが多いけれど、私は、次に進む大事なステップだと思う。

 もともと「諦める」の語源は「あきらむ」。
 物事をつまびらかに、明らかにすることだ。

 自分の執着の元を知ること。
 できることとできないことをわけること。
 そこから、何かを使ってできるならその助けを借りて、それでもできないことは別の方法で、補完できないか模索する。 

 以前の能力を取り戻そうとやみくもに「回復センター」に駆け込むより、ずっとよい結果につながると思うし、気持ちの持ちようも違う。

 そしてなにより、年を取ることは、そういった「考え方を身につけていく」ということでもあると思う。もっといえば「許容範囲を広げる」可能性に満ちている、と言える。

 できないこと、出来なくなっていくことを受け入れることは悲しく寂しいことかもしれないけれど、諦めることで別の視点を得られることもあるし、人の痛みを知ることもある。

 ひとつの道だけではなく他の道もあると知ること、それはひとつの叡智だと思う。

 大好きな歌人の林白果さんの歌に、こういう歌がある。

ふいに来てふいに去るもの愛しくてかなしいけれどずっと愛しい

林白果さんの2/29の「今日の短歌」「雨の夜には」より

 私はこの歌が大変気に入り、コメントした。林さんはコメントのお返しに、「かなしいといとしい、って、語源同じらしいですね。愛しいから、かなしい。でも愛しいという気持ちを込めました。」と返してくださった。

 年を取ることは、確かに悲しい。
 でも、肉体的な能力とひきかえに叡智を得ていくこと。どれほど年齢を重ねても未知の世界があり、それを知ることができること―――私はそれを、愛しいことだと思う。そして願わくば、そういうことを受け止められる年の取り方をしていきたい、と思う。
 
 そんな気持ちで書いた、「愛おしい」だった。