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言葉あれこれ#6 落日雑感

 まったき日というのは存在するのかしないのか、いやおそらく人間として生きている限り存在しようがないのだと思うのだが、夕刻、宵闇が近づくこんな十二月の肌寒く乾いた日などは、しまった、と思うのだ。
 しまった。なぜこうも無頓着に一日を過ごしてしまったのだろうか。過ごすというのに相応しく、時間が無暗に溶けてなくなってしまったかのように、朝起きて何もせず今、ぽつんとここにいるような、そんな心持になる瞬間がある。

 なにもしなかった、というのは、食事や仕事や家事や雑事などおよそ社会に生きとし誰もがするようなわざのことではなく、生きる営み、といったようなもののことだ。しなければならないことと、したくないこと、せざるを得ないことの狭間に、いちいち思考を挟まぬようになるのが老化ということである。機械的に行ったあれこれを、ふと忘れ、あらいま私は何をしにここに来たのだったかと訝しむこと数回。すぐに思い出すにしても、思い出せぬにしても、そういうことを繰り返した一日というのは、何か他に気を取られているのは間違いない。荷物を取りにいくとか支払いにコンビニに行くとか業者に確認の電話をするとかとにかく些事が詰まっている日は、ことに「全き日」への憧れが募る。

 今日いちにち、私は何をしたのだろうか。もっとできたことがあったのではないだろうか。時間に追われ、何かに気を取られたまま時間だけが過ぎる。やるべきことは終わっていたとしても、未完成感に苛まれる。いや、実際には終わることはない。結局次々とやることは生まれ、尽きない。未完了、未完成。

 小説や映画の中ではあゝ今日は完璧であったと宣う人物がひとりやふたりいるものである。大抵は逢引の後などで恋愛の醍醐味をそんな風に表現するのだろうけれども、恋愛のようなまるで麻薬の如き媚薬で満たされた完璧ではなく、なにか一日の中の一日のような、人生を積分して最も良き日の部分を切り取ってそこだけ微分したような、そんな一日を過ごしてみたいものだ。自分のすべきことをしたのちに、それに満足を覚えるような一日。ああなんだか生きたぞと思えるような。

 そんな思索をしているうちに、いつのまにかとっぷりと日が暮れひんやりした夜気がひたひたとカーテンの下から侵入してくる。電車に乗っているときなどは、窓の外に黒い街影をぼんやり眺めることもある。この季節の、あの切絵のような街並みを見るのは、存外好きである。カーテンの下を潜る冷気を感じる時と影絵の街をみるときは、いつもどういうわけかドヴォルザークのメロディーが頭をよぎる。歌詞はいつも「遠き山に日は落ちて」だ。山はないのに。
 こうして未完成未発達未成熟なまま生涯を終えてしまうのだろう。完璧などはない。完璧な日も完璧な人生もない。ただ全き日への妄想ができる平和に憩い、どこからか聴こえてくるドヴォルザークに酔いしれつつ、もはや老いた目には見えぬ宇宙の下で眠るのである。


 遠き山に 日は落ちて
 星は空を ちりばめぬ
 きょうのわざを 成し終えて
 心軽く 安らえば
 風は涼し この夕べ
 いざや 楽しき まどいせん

ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」第2楽章/堀内敬三作詞

 戦後、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」第2楽章のメロディにこの日本語の歌詞をつけたのは堀内敬三(『音楽の友社』の創設者)。戦前に宮沢賢治が「種山ヶ原」という歌詞をつけている。早春のイーハトーヴの歌。『銀河鉄道の夜』の中にもこの曲と思しき曲が出てくる。
 英語の歌詞としてはドヴォルザークの弟子であったフィッシャーが作詞した『家路 (Goin' Home)」』がある。その日本語訳もある(野上彰訳詞)。なぜかしらどうしても労働の後家に帰って憩う歌詞が多い。メロディーにそのような魂が宿ったのだろうかといつも思う。