見出し画像

片耳難聴の詩人:はじめに 「音と唇と仕草」

一人ひとり聞こえている音や見えている世界は、全く違うという見逃してしまいがちな現実を紡いでいきたい。

わたしは生まれてこのかた、左耳からの音を聞いたことがありません。

片側が聞こえないと気配に気づけず、背後からくる車や自転車の気配に気づけず危ない思いをしたり、大人数での会話になると聞き取れないなど、挙げたらキリがないほど、不便なことがあります。

ですが、この「片耳難聴の詩人」シリーズでは、片耳難聴だからこそ聞こえ、見える世界の表現に焦点をあてていきたいと思います。

聞き逃しや聞き間違えをしないように、普段から無意識にかなりを気を張っているからこそ、気づく人々の表情や表現、唇の動きの機微は、自分自身にとっては当たり前のことでした。

けれども、もしかしたらそれは、わたしにだけ見えている世界だったのかもしれない。

陽の光があたれば、影になり暗い部分と眩しいくらい輝いている部分とがある。輝いている部分とその境目、そして暗い部分を行ったり来たりしながら「ならでは」の表現を見出したい。

例えば、バンドの演奏が楽器を奏でて、歌詞を歌うことがだけが「曲」ではなく、一人ひとりの演奏の仕方や、立ち振る舞い、演出、その全てが曲を創り出しているように。

例えば、一人の画家の書いた絵が、美術館や画廊に選ばれ、額に入れられて、他の作品との構成をもって飾られることで、「絵」としてのストーリーが確立されるように。

会話も同じで、ただ誰かの口から出てくる単語を聞き取って返事をすればいいということではなくて、表情や仕草、服装、場所、その全てのコンテクストが揃って、はじめて「発言」になる。その機微を受け取って、解釈して、反応することで「会話」になる。

忙しくなると、つい聞き取ること、感じ取ること、返事することを、乱雑に扱ってしまうことがあります。

そんな姿勢になったしまったとき、片耳が聞こえないからこそ「ほら、ちゃんと話しを聞いてね」と、常日頃気づかされる。だからこそわたしは、聞こえない左耳も、聞こえる右耳もどちらも愛おしい。

この耳で聞こえている・聞こえていない、この目で見えている・見えていない、そしてこの体で感じ取れる、一瞬の儚い世界を描写していきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?