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Future War

///// 長過ぎる前書き /////

Future War は、2003年後半に書いたものです。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロが発生した時、私はカブールから車で7時間くらい離れた村に着いたところでした。ラジオでアメリカ同時多発テロのニュースを聞き、本部からの指令に従い、翌早朝カブールに戻り、現地職員達と大急ぎで撤退処理を行い、カブールから小さな国連機で隣国のイスラマバードへ退避しました。個人の出国準備に与えられたのは15分くらいでした。私は全ての私物を諦め、ラップトップだけを持って出ました。「文藝春秋」の依頼で、その当時の話を書きましたが、手元にはもうありません。

10月7日にアフガニスタンへの空爆が開始されました。各国連機関は空爆下のアフガニスタンへ入ることを許されず、隣国のイラン、パキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、アフガニスタンへの援助を準備をしていました。私が待機するイスラマバードには毎日応援部隊が到着していました。

11月7日(だったと思いますが、記憶が不鮮明です)、ようやく国連のアフガニスタンへの入国が許可されました。但し、入国できるのは各機関1名から2名に限定されました。各国連機関はそれまでに世界中から緊急援助に熟練した職員を隣国の首都であるイスラマバードに呼び寄せていました。国連職員数百人が待機する中、結局、第一号機は8人だけ乗せてカブールに向けて飛び発ちました。私はその中の一人でした。それから起ったことは、いつかまた別に書こうと思います。

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2003年3月19日イラクへの空爆が開始されました。私は国連を休職し、NGOで隣国ヨルダンの首都アンマンを基地にして、国境地帯の難民キャンプの準備をしていました。朝5時くらいだったと思いますが、携帯が鳴りました。国連の友人からでした。

Hey, rock'n roll !

それだけでした。空爆が始まったという意味です。私はすぐに着替えてランドクルーザーに乗り込み、もう何度も往復した一本道をイラク国境に向かいました。

当時、国連やNGOの中では、イラクの空爆に対して批判的な人がほとんどだったように思います(おそらく今でも)。その一年半前くらいのアフガニスタンへの攻撃が始まった時から、私は慢性的に抑うつに悩まされ始めました。人道援助コミュニティの中には米軍との接触を拒絶するような人も少なくなかった。原則の問題として、紛争の一方当事者とは関われないということでした。

空爆中、イラク国内には人道援助ワーカーはいませんでした。アフガニスタンの時と同じです。この瞬間何が起きているかを知っているのは米軍だけです。ジャーナリストは我々に聞きに来るくらい当てになりません。当時、ヨルダンにあるアメリカ大使館には軍と人道援助を調整することを仕事にする人たちがいました。

私は思想的には人道援助ワーカーに共鳴していましたが、現場で仕事をする人間としては、原則よりも情報の方が重要だと考えていました。イラクに入る前にどうしても情報が必要だ、そして情報源は米軍のみだ、という状況で米軍と話さないのはバカげてると思っていました。

ある日、私はノコノコとアメリカ大使館に行って、人道援助の調整をしている人たちに会いました。ちょっとビックリしたようでした。というのは、その少し前、国連やNGOを集めて、米軍の人や米外交官が会議をしたことがあったのですが、その時、米軍のエライ人が一通りの状況説明を終えて、人道援助がいかに重要なものと考えているかを話し、最後に「ヒーローは君たちなのだ!」と締めくくりました。

アメリカっぽいなと思って、少しにやけていると、ずっと神妙に聞いていた人道援助側から一人の国連職員が手をあげて、質問していいですか?とききました。質問は、

あのー、ヒーローになりたくない場合はどうしたらいいんでしょうか?

強烈な皮肉。ある意味で、ヨーロッパ人らしいと思いました。雰囲気はめちゃくちゃ悪くなりました。それが改善することはその後なかったと思います。

ヒーローなんて言葉持ち出すんじゃねえっていう人道援助原理派の気持ちもよく分かります。しかし、何が起こっているかさっぱり分からないところへ、人道援助コミュニティはいったい何をしにいくつもりなんだとも私は思っていました。

私が欲しかったのは情報だけではありませんでした。アフガニスタンでは国連よりもはるかに信頼のおける現地の人々のネットワークを持っていました。それに土地勘もありました。しかし、イラクにはそういうものがなく、自分を守る方法が全く思いつかなかったのです。現実的には二方向からの危険を考えていました。一つは現地の人々からの攻撃。一般イラク人が攻撃してくることはないとしても、イラクの複雑な情勢の中で、誰が何を考えているかはさっぱり分かりませんでした(その後、これはイラクに悪夢をもたらします)。

もう一つは、米軍からの攻撃です。自分は何者でもない、誰も自分を知らない。もし、少しでも自分の動きが脅威と見なされたら米軍に攻撃されてしまう。彼らは戦争をしているのだから、それは仕方ない。そんな事件はアフガニスタンでいくらでもありました。

私は自分がいつ、どこにいるかを米軍に知ってもらう必要があると考えていました。それ以外に自分を守る方法がない。イラクの国境を越える日時、車種、ナンバー、同乗する人数、携帯衛星番号などを米大使館の調整官に伝えました。彼はそれをイラク内の米軍に伝え、私は万が一の時のコンタクト先をもらいました。やがて、それを使う時が来てしまったのですが、それはまた別に書こうと思います。

4月28日、私は国境を超え、バグダッドに向かいました。空爆後最初にイラクに戻る人道援助ワーカーでした。5月1日ブッシュ大統領はイラク戦争の終了宣言をしました。

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2003年8月19日、私はまたいつもと同じ砂漠の中の一本道をバグダッドからアンマンへ向かっていました。その日、バグダッドの国連事務所が爆破されました。NGOは解散し、全員撤退しました。

翌月から私は名古屋大学の大学院で助教授という仕事を始めていました。私は二つの戦争のこと、そこで亡くなった同僚達のこと、そして自分が生きていることを考え続けていました。Future War を書いたのは、その頃です。

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