ブラック企業の話

就職まで

昔働いていた会社がまあブラックだった。そこで働いた二年間は地獄そのもので、今でも夢に出る。18歳から20歳までは、精神的な成長は止まり、ただ苦しみながら仕事をする毎日だった。

高校生の頃、進学よりも就職を選ぶ人が多くて自分もその道を選んだ。そもそも進学できる脳みそを持ち合わせていなかったため、消去法で選んだようなものだった。

中学生くらいの頃は、なんとなく大人になったら、ローンで車を買って、それに乗って地元の企業に就職するんだろうなあと思っていたけど、高校三年生になるまでに音楽やインターネットに触れたのもあって多感になり、なんとなく東京への憧れを持つようになった。

地元を離れたいとはじめて告げた時の母と祖母のびっくりしたような悲しいような顔が忘れられない。ギリギリまで反対された。

反対が続いていたこともあり、私にとって就職とは生活やお金、自分の成長のためのものではなく、東京に出るための口実に変わっていった。ここから間違っていたと思う。

なるべく東京の真ん中で、接客で、住むところが担保されている。この条件で探すと求人が限られていた。栃木や埼玉、千葉で探したらもっと求人が広がったのに、本当に考え方が頑固で一辺倒だと思う。

そんな数少ない求人から選んだ会社は、スーパーの正社員だった。元々スーパーでアルバイトをしていたから自分に合ってるかなーぐらいで選んだ。この選択から地獄のはじまりだった

地獄のはじまり

初日から朝7時始業。
寮から近かったこともあり、6時半ぐらいに家を出ていた。部門が決まるまでは早めに帰れるからねーと、主任たち笑いながら言っていたのを覚えている。タイムカードを押せたのは、夕方17時頃だった。

せっかくだから仕事終わりに街へ出てみようと思い、池袋まで行ったけどクタクタすぎて買い物する元気もなかった。

一週間ほど研修をして、私は青果部門に配属された。周りからは、主任おっかねえぞーとか死ぬほどキツいとエールを贈られた。

本当にきつかった。
配属が決まると、勤務時間が長くなった。
朝7時から夜19時の休憩は1時間。19時ジャストに上がれるわけがなく、20時〜21時くらいまでは残って仕事をしていた。それを主任に嘆いたことがあるのだけれど、お前の仕事が遅いからだと一蹴されてしまった。ほぼ毎日約12時間走り回っていた。

  • 休みは月7日固定。(週休二日どこいったんや)

  • 有給は無し。(そんなことあるんか!?)

  • 給料は手取りで10万円程度(寮費、光熱費が引かれている)

  • 残業代はでない

よくこんな条件で働いていたな!?
主任からのパワハラも凄くて、○ねと言われたこともあるし、自分が用意した加工品の山をぶちまけられたこともあった。帰宅してから電話が鳴って、間違えた仕事をやりに職場に戻ったこともあった。

それでも周りの同僚や先輩はとても優しくて、なんとか続けられていた。いや、ここを辞めたら寮も追い出され実家に泣き寝入りするというのが情けなくて耐えていたのだと思う。

2年目からは職場の場所が数駅離れた系列店舗になった。最初は電車で通っていたけど、ある日ママチャリが支給され、チャリ通になった。朝は5時半起き。槍でも降ってこない限り自転車を漕いだ。そこの店舗は少数精鋭でやっていて、勤務時間も待遇も変わらないけどある程度のびのびやれていたと思う。往復のチャリのせいで疲労は二倍くらいに増えた。

一年半くらい働いた時、我慢の限界を迎えた私は、店長と副社長に退職を申し出た。それからなかなか辞めることはできずに、三年目を迎えようとしていた春に辞めることができた。

会社の方針で毎月少しだけ貯金をしていたこともあり、都内に引っ越しをして数ヶ月の転職期間(ほぼニート)を経て再スタートをきれた。ちなみに今でもずっとそこに住んでいる

昔の自分へ

インターネットが普及して、スマホをひらけば自分以外のみんながキラキラと輝いているでしょう。そんな人たちが私は大嫌いだった。

田舎から出てきた友達はみんな大学生で、話す度に学校であった楽しいこと。飲み過ぎたこと。彼女ができたこと。いろんな報告を受ける度に独りで苦しくなっていた。自分は毎日地獄なのに。耐えきれずライングループを抜けたこともあったね。本当に辛かっただろうに。

ただ、なんとかなる。
29歳になった今でもなんとか生きてるし、それなりに楽しいこともある。相変わらず金はねえけど。

お疲れ様

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