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SMよ、人生をひっくり返してくれ⑳ この子を解放してあげたいと思った(前編)

広島の夜は長い。そして、何が起きるかわからない。
ほんの1、2杯お酒を飲んで帰る予定だったSMバーで、今、私は鞭を持ち、お客さんに囲まれている。

時間にして10時ごろだったろうか。私が来店したときよりも明らかに人数が増えた。「Club Mazan(マザン)」のお客さんは横のつながりもあるらしく、ちょくちょくスマホをチェックしては「〇〇くん、これから来るってさ~」などオーナーに報告している。十数席のカウンターには老若男女、ファッションもばらばらでいろんな素性と思しき人達がひしめいていた。

「はい、じゃあどんどん来て」

カウンターの内側の小さなショースペース、ちょうどいい高さの台に両手をついたオーナーがこちらに尻を向け、鞭の講習がスタートした。「がんばってー」。ほろ酔いの”先輩”かまったく知らない客か、どこからか声援が飛んだ。バッティングセンターの見物人のような気楽さと温かさだ。

鞭にも流派があるのか?

オーナーの尻をめがけて、鞭を打つ。
私は池袋のゲルニカで習ったように、右手で鞭の穂を支えながらそろ~っと滑らせてビシッとその肉に振り下ろした。すかっ。届かない。鞭をぶらぶら揺らして穂先で尻との距離を測り直し、数歩前に出て、再びスパン。
最初はうんうんと肯定的に反応してくれていたオーナーだったが、実は違ったらしい。何度か打つうちに「それじゃダメ」と指導が入った。

「もっと自然に、上から落とすように!」

オーナーはもどかしそうにつかつかと歩いてくると、私の手をとり「こう!」と修正した。腕に力を入れずに、ぐるん、ぐるんと回す。ゲルニカの鞭はしゅっと伸びていくヨーヨーのようなイメージだったが、マザンの鞭は、自然の物理に逆らわない打たせ湯や永久機関のような身体の使い方だ。
オーナーはSMを独学で習得したというけれど、農業や日舞などと同じように、鞭にも流派があるのかもしれない。

いや、もしかしたら私の受け取り方が違っただけで、どちらのお店でも同じ方法を教えてくれたのかもしれないが……いかんせん素人にはわからないことだ。

この世に、尻と自分しかいない感覚

オーナーが指導に回って「的」が不在となったため、「はいー、じゃあお兄さんお尻貸してあげて」とレスラー兄さんが召喚された。鞭で打つと、「うひょ、うひょ~」と奇声が上がり、彼女さんや周りのお客さんがケタケタと笑う。こちらからは顔が見えないが、きっといいリアクションだったのだろう。

そんな感じで、何人かの男性がオーナーに指名されてお尻を貸してくれたのだが、一人だけ笑わない人がいた。その人は小柄でメガネをかけ、造形のコミケなどに熱心に通っていそうな静かな真面目さを帯びていた。痩せているので、お尻の的も心なしか狭い。その狭さがプレッシャーとなり、なかなか打撃音が出せないまま練習終了。

その人は去り際に私と向き合い、眉一つ動かさずに初めて口を開いた。
「通常は腰より下のあたりがちょうどよいポイントなのですが、今回は上めだったので少し痛かったです」
的確な感想&アドバイスである。きっとこの人は、どこかで試食やモニターをしたときにも「おいしかった」「得した」で終わらせずに、きっちり開発の次につながる感想や提案などをアンケートに記入するタイプだろう。
「す、すみません。でも教えていただき、ありがとうございます!」
素直に頭を下げた。

怒涛のお尻、連続斬り。

その後は、満を持して”先輩”アサイン。先輩もどちらかというと大多数のお客さんと同じくおちゃらけモードであったが、私はそれどころじゃなかった。
ちゃんといい的に当てたい。それで頭がいっぱいだった。
S嬢としてのスキルが上り、M男さんとより繊細なコミュニケーションが取れるようになれば、私の人間関係の呪縛もまた溶けていくかもしれない。

腰より下、尾てい骨より上。腕を回して降ろす、腕を回して降ろす、腕を……

周囲から音が消え、人が消え、この世界には先輩の尻と自分しかいないような感覚に陥っていく。ああ、狩猟で獣を撃ったり射撃するときも、こんな気持ちになるときあるよな。外界と断絶されていく意識。その隙間にねじ込むように「なんか、あんなにマジメな顔してるとシュールよねぇ」と女性の声が届いたが、気にしている余裕はない。

腰より下、尾てい骨より上。腕を回して降ろす、腕を回して降ろす、腕を

下手な鉄砲も数打てば、だ。イチローの打率には遠く及ばないが、10回に1回くらいはストライクポイントでいい音が出るようになった気がする。うん、まだまだいける。まだまだいけるが、きっと先輩のお尻も痛いに違いない。
私は「この辺でやめときましょうかね。いやぁ、ありがとうございます」と先輩を客席に戻してあげることにした。

どんな顔をすれば、そうなるんだ

そしてもう次の「的」さんもいないようだし、私も席に戻ろうかとカウンターを出たところ

「あのぉ、もう終わりでしょうか」

おずおずと、一人の男性が声をかけてきた。見た目は60代後半くらいで、もうお孫さんもいるのではないかというような優しいお顔立ち。SMバーより早朝の公園が似合いそうな服装で、私は声をかけられた意味がしばらくわからなかった。

「え、はい? 終わり・・・終わりって何でしょうか??」

おじさんは椅子に座ったまま、歩いて通り過ぎようとした私の顔を乞うように見上げている。隣に座っていた顔馴染みらしき人たちが、ニヤニヤしながら代わりに答えた。
「〇〇さん、鞭でぶたれたいんですよね~」
仲間のアシストに勇気づけられたのか、今度はもう少しはっきりと言葉にするおじさん。
「そうなんです。いかがでしょうか?」
「あ、はい。もちろん大丈夫です!!」
私は、まるで居酒屋の閉店間際に駆け込んできた客を受け入れるような愛想と威勢を持って、快諾した。
もういいお歳だろうからケガをさせてはいけない。私は手加減しながらぺしっと鞭を振り下ろす。
「これで大丈夫ですか? 痛いです?」
「いや、大丈夫です。もっと強く」
もしかしたら乾布摩擦などで肌は鍛えているのかもしれない。このおじさんの生命力を信じよう。私は遠慮なくおじさんの尻をしばいた。
ビシッ、ベタッ、ビシッ、ビシッ。
たまに外すこともあるが、とにかくダーツのbullだ。bullを狙え。公園おじさんよ、お前のbullはどこにある?  指示出せ、声出せ、欲望出せ。

今の私も、マジメな顔してシュールだろうか。
汗もかきはじめたし、今日もやっぱりスニーカー。美しい女王様には程遠いだろう。そんな邪念に気を取られそうになっていたところ――

「おおぉ!」

にわかに声が上がった。なぜか客席が沸いている。それも1回じゃない。鞭が肉を震わせる度に、横の女性なんかは桜の開花をみたようにどこかうれしそうだ。一体何が起きている? 思わず手を留めて「どうしたんですか?」と尋ねると

「いやね、この方すごくいい表情されてるから」
「うれしそうよね」

いったいどんな顔してるんだよ。そこまで人を感動させられるM男さんのリアクションは、もう世界を幸せにする宝なんじゃないか。
私も見たかったが、顔は尻の反対側についているため叶わない。鏡を置くとか正面を向かせて足を打つなどの変形プレイをすれば見られたかもしれないがそこまでの気転は効かず、私は高価な果物を育てたのに食べられない生産者のような誇らしさと口惜しさを同時に味わったのであった。

しかし、発見はこれだけでは終わらなかった。
(続く)

カラス雑誌「CROW'S」の制作費や、虐待サバイバーさんに取材しにいくための交通費として、ありがたく使わせていただきます!!