一生、走り出さない僕たち
人は誰もが思いを巡らせながら日々を過ごしていると思います。
思いというのは実に不思議なのものです。
そもそも私たちが思いを巡らせはじめたのはいつからでしょう?
幼い頃、こんなに頭が痛くなるほど色々考えを巡らせていたでしょうか?
かくいう私は小学校へ入学する位まで、ほぼ何も考えていませんでした。
すべてを直感に委ね、日々を思いのままに過ごしていました。
そうして、年齢を重ねるにつれて、いつしか色々と考えを巡らせるようになり、考えを巡らせるほどに、どういうわけか何もかもがうまくいかなくなりはじめました。
これは変です、真剣に考えて創意工夫、試行錯誤するほどに何もかもがおかしな方向へと進んだのです。
そして何もかもがうまくいかないものだから、自分の中の不安が恐れへと変わり、ますます思いを巡らせるようになります。
考えれば考えるほどに歩みは遅くなり、最後には歩みを止めてしまうのです。そうして最後には一歩も前に進めなくなるのです。
でも自分の心の中では、そんな緊急事態であるにもかかわらず、こんな風に思っていたりするのです。
でもダメなんです。
思うだけでは何も起こらないのです、何故ならそういう仕組みだからです。
手元のスマホを見て思うだけでは何も起こらないのと同じです。
スマホの画面をタップしてアプリを起動してからがはじまりなのです。
思いを巡らせている段階というのは、出場する予定のカケッコのスタートラインで待機している状態です。
体育大会では大会運営からの合図でヨーイ・ドン!が行われます。
でも私たちの心の中には自分しかいないので、自分で走り出さないといけないのです。
私たちは行動するすることを信条としてこの世界に生まれてきました。
私たちが生まれてきたことに意味があるとするならば、自分を生きるためであり、そのためには行動が必要となる、そんな簡単な仕組みなのです。
でも簡単すぎるからこそ、私たちはその仕組みを忘れたように日々を脳死状態で生きてしまっているのです。
そうして、そんな日々が繰り返すうちに、自分の中の不正解が正解へと置き換わってゆきます。
やがて行動より先にありもしない正解を求めて歩みを遅くしたり、歩みを止めて思考する、というのを繰り返してしまうのです。
正解よりも、楽しいを答えに
私たちの行動を制限しているのは他でもない、私たちの正解を求めすぎる心です。でも私たちが求める正解はこの世界にはないのです。
何故なら自分の心の在り方を決めるのはいつだって自分だからです。
そもそも世界は私たちをジャッジしません。
私たち自身がああでもないこうでもないと、不正解を恐れ、歩みを遅くしているだけなのです。
世界には私たちの歩んだ後に道を作る仕組みしかないのです。
そんな右往左往している、私たち自身が世界そのものなのです。
走り出すのは、いつだって自分自身です。
本当は胸の奥のほうからノックと共に声が聞こえているはずです。
そろそろ心を軽やかにして、走り出す時ではないでしょうか?
行動の先に何が待ち受けていようとも、それは不正解なんかじゃない。だからすべてを楽しんでも大丈夫なんですよ?
すべては私たち次第です。
あとがき
現在YouTubeでCMも流れているのでご存じの方も多いかもしれませんが、自由な世界を表現したプロジェクト【Quadratic Playground】に感銘を受けてこの記事を書きました。
正解、不正解はもう十分体験しました、これからはいかに楽しむか、そんな時代です。
YoshitakahikoNasuno
タイトル画像
鳥枝もんさんよりお借りしています。
ありがとうございます。
プロフィール
私、那須ノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。