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【映画感想文vol.1】はじまりのうた「音楽で人をつなげること」 ※ネタバレ有り

◼︎映画データ
BEGIN AGAIN (邦題「はじまりのうた」)
2015年公開(日本)

監  督: ジョン・カーニー
映画脚本: ジョン・カーニー
音  楽: Alex Ander

出  演:キーラ・ナイトレイ(グレタ)
     マーク・ラファロ(ダン)
     アダム・レヴィーン(デイヴ)
     ジェームズ・コーデン(スティーヴ)


失恋したシンガーのグレタと、仕事に行き詰まる音楽プロデューサーのダン。
それぞれが失意の中だった。

◼︎ストーリー
シンガーソングライターのグレタは、同じくシンガーで恋人のデイヴの楽曲がヒットしたことをきっかけに、デイヴとともにニューヨークに移り住む。
大手のレコード会社と契約したデイヴだったが、ツアー中に同行していた会社の女性と関係を持つ。失意の中家を飛び出したグレタはアーティスト仲間のスティーヴを頼り、家に置いてもらうことに。グレタに元気を出して欲しいスティーヴは無理やりライブにグレタを誘い、一曲歌って欲しいとステージに上げる。その歌声を聴いていたのは音楽プロデューサーのダンだった。

ダンは自身のレーベルを立ち上げるまでに成功していたが、ここ数年はヒットに恵まれず、共にレーベルを立ち上げた仲間とは意見が食い違っていた。ついにクビを言い渡され、家族とも上手くいっておらず、おまけに酒を飲まなきゃやっていられず、こちらも失意の中にいる。

グレタに才能を見出したダンは、一緒にアルバムを作らないかと誘う。一度は断るグレタだったが、レコーディングをすると決めた。しかし、アルバムを作る資金がないため、ダンのアイディアでニューヨークの街中でレコーディングをすることになるのだった。


ダンの目線で見てしまう。

小さな時から漠然と音楽を続けていた私は高校卒業後、音楽大学のマネジメント学科に進んで、コンサートの企画制作の勉強を始めた。在学中は自分の企画を実現させてもらえたり、卒業してからはホールのコンサート企画事業に携わり、様々なジャンルのアーティストと街中を回って公演をしたり。夜まで曲目や演出のアイディアを出し合ったり。短い期間ではあったけれど、本当に良い時間だった。

だから、ダンの目線でこの映画を見てしまう。しかし、ダンのようにレコード会社からレーベルを立ち上げるほど成功したりはしていないし、今は音楽業界から離れている。それもあって少し客観的になっているが、音楽やアーティストをつなぐ役割にフォーカスして「はじまりのうた」を見てみた。


内にあるものを知ることから、すべてが始まる。


私はアーティストやプロデューサー、舞台に関わる人たちが交わって、自分の音楽観、好きな作曲家や曲の話、家族の話や、音楽以外の趣味の話をしている空間が本当に好きだった。

生い立ちを語ったり、好きなものや人の話をすると、本当にその人を理解できる。ただ、さらけ出す怖さもある。だからいつでも誰とでもできる事ではない。人が今を形成してきた過程を、音楽は良く表している。何に惹かれるかは、何を美しく感じるかであるし、何が自分の意に反するかでもある。それを上手く引き出し折衷して行くのもプロデューサーの役割だと感じる。

レコーディングが進み、ふたりがレストランで食事をとっているシーンでは、グレタがなんとなくかけた言葉に、ダンは気を悪くしてしまって先に店を出てしまう。(ダンには別居している妻と娘がいて、励ますつもりで娘には父親が必要だ、なんて言ってしまうが、別居するに至った理由は妻の浮気にあった)
グレタは謝りながらダンを追いかけて、ふたりはお互いのプレイリストを聴きながら街を歩くことにする。私がこの映画の中で好きなシーンのひとつだ。
お互いを尊重していること、良い関係を築きたいと思っている事を、明確に伝える描写がなくてもはっきりと分かった。むしろ「信頼しているよ」なんて言葉をかけるよりも伝わる。さっきはなんとなくかけた言葉で傷つけてしまった相手に対して、今度は言葉ではないアプローチで誠意を伝えている。

ダンは妻ミリアムとの初めてのデートでも、プレイリストを聴き合っていた。
自分の心の底にあるものを見せる(聴かせる)瞬間って、好きな人に本当の気持ちを伝える瞬間みたいで、ふたりがちょっと恋人同士っぽく見えてしまうところにも納得いってしまう。でもこれはお互いに大事な人がいるからこそ成立する「恋人っぽさ」だと思えるので、安心して見ていられる。まさか、そこで2人が安易にくっつかないよね?と、無駄にハラハラすることはない。


思ってもみないことが起こったりもする。


とは言え、そんな楽しい時間が必ずしもビジネスの意味での成功に繋がらないことがある。

ダンも一度はプロデューサーとして大きく成功して、自分がプロデュースしたヒップホップアーティストのトラブルガムは豪邸に住み、有名アーティストになっている。ダンとグレタはアーティストが足りないことを彼に明かしに行くと「お金は自分が出す」とドラムとベースを紹介してくれるのだった。ダンがそれを期待して来たにしろ、本人にそうしてあげたいという意思がなければ引き出せない言葉だ。
「何年か運の悪い年が続き、リスペクトを失うこともある。ただ今の自分がいるのは彼のおかげだ」トラブルガムがそうグレタに話すシーンがある。これも好きなシーンのひとつ。彼はダンに才能がないとも、落ちこぼれているとももちろん言わない。ビジネス面での落ち込みを人間の評価にはつなげたりしない。真摯に人や音と向き合ってきた人を、人は見放さないのだ。上手く行っている時もそうでない時も、丁寧に人と仕事をしていたことがわかる。ダンの人間力にただただ感心してしまう。

知識や経験の他にプロデューサー業務に必要なのは、人をリスペクトできるか。ひいては、リスペクトできる相手を選べるかだと思う。これは自分が下手に回り相手を持ち上げたりすることではない。本心から出る意味あるリスペクトでなければいけないと感じる。それぞれの役割があり、それぞれのキャリアが、立場が、そして主張がある。プロデューサーはそれをまとめ、時には取捨選択し、しかし自分が殺さずに決めていかなくてはならない。非常に絶妙なバランス感覚を必要とする。アーティストの要求を全て受け入れられればいいプロデューサーかと言われれば、決してそうではない。どこまでアーティストの要望を聞くのか、相反するものが融合した時の面白さに賭けるか、それとも同じ路線のものを掛け合わせるのか。いつでも選択を強いられている。ダンがそうやって仕事をしてきたからこそ、思ってもみなかった手助け受けられたのかもしれない。

「良いものを創りたい」その一心で、音楽や人に向かっていくと思ってもみないことが起こることがある。これは私自身も経験したことがあった。

学生の頃、弦楽器とピアノのプログラムで構成した企画を立てた。シンプルだけど洗練された、繊細で美しい曲をどうにか形にしたいと思った私は、ダメ元で一流のアーティストにお願いしたいと会議でプレゼンをした。
すると幸運なことに、私の熱意をかってくれた先生達が、アーティストと繋いでくれたのだ。私は企画書だけを持ち、有名オーケストラのコンサートマスターであるヴァイオリニストの元を訪れた。(今考えると怖いもの知らずにも程がある)出演を許諾してくれたのはそのヴァイオリニストと、彼が指名した同じオーケストラのチェリストだった。学生の私の企画には身に余るくらい豪華で、ありえないキャスティングだった。先生は嬉しそうに「これで失敗したら業界追放だな」と言っていたが、あのジョークは今でも笑えない。

ただ、もうひとつ曲げたくないことがあった。共演するピアニストのことだ。彼女は私と同い年で、実力は間違いなかったが、当時はコンクールで賞を取ったばかりの駆け出しのアーティストだった。私は彼女の純粋で繊細な音や、彼女自身の芯もあり、かつ柔らかい雰囲気が大好きだったが、弦楽器のふたりとあまりにもキャリアにひらきがあることが少し気がかりだった。若いアーティストは有名なアーティストとの共演歴が強みになる。しかし、それが上手くいかなければ今後の演奏家活動に大きく影響するかもしれない。

しかし私の不安をよそに、彼らは最高のコンサートを創り上げてくれた。
本当に美しい時間だった。この瞬間が永遠なら、と心から思った。

それからしばらく経ち、嬉しいことが起きた。チェリストの先生は自身のソロアルバムのピアノ伴奏を、共演した彼女にお願いしていたのだ。私の企画で初めて会い、同じステージに上がったふたりが、別の形で繋がっていった。もちろんふたりのフィーリングあってこそなので、私はその出会いのきっかけに少し関わっただけに過ぎない。

後日ピアニストの彼女は「本当に楽しかった、あのコンサートは自分の中で特別だった」と言ってくれた。シャイで、決して口数が多いわけではない彼女からその言葉を聞けただけで、本当にやってよかったと思った。
それから間も無くして彼女はドイツに留学し、今ではオーケストラをバックにコンチェルトを弾くほどのピアニストになった。

映画の中でも、ダンもグレタと出会いアルバムを作っているうちに、別居している家族との関係が修復に向かっていく。ダンの娘のバイオレットがレコーディングにギターで参加し、ミリアムがそれを見にくるのだ。ダンが誠実に音や人と向き合っている姿を見ることができて、家族は嬉しかっただろう。そしてここから少しずつ、ダンと家族の関係も修復に向かっていく。
月並みな言葉だけど、音楽にはそういった不思議な力がある。


「音楽は多くの人と分かち合うもの」
必ずしもそうだろうか。


グレタの元恋人デイヴは、グレタと別れた後ニューヨークで有名なミュージシャンになっていく。それにつれて考えがとても商業的になっていった。
小さな部屋でグレタと歌っていた時の純粋な気持ちから距離ができ、どうすれば聴衆が、ライヴが盛り上がるか、どうすれば楽曲が売れるかに重きを置くようになっていく。
ただ、そこを上手く転換できたことが彼が売れていった理由でもある。聴衆が求めてるものを生むことも簡単なことではない。元々デイヴはそういった思考だったのかもしれない。

一方グレタは、ダンが初めて歌を聴いて声をかけてきた時に「私は曲を書くだけ。他人にわかってもらわなくてもいい。夢見て上京して来たミュージシャンではない」とはっきり言っている。

聴衆あってこそ、曲が知られてこそ。その考えを否定はできないけれど「音楽を生業にしている人」と「していない人」で考えは違ってくると思う。私が必要だと思うのはその曲がなぜ生まれたか、そして生まれた瞬間の自分の気持ちがどうだったかを忘れないこと。そういった意味ではグレタの考えに近いところがある。作品が生まれたままの形が愛され、広まっていくことが理想なのかもしれないが、そう上手くはいかないこともある。

グレタはある日、デイヴの携帯の留守電に自分の歌を録音して送る。決別のつもりだった。その後、デイヴから会いたいとメールが来て、グレタは迷うが、会うことを決める。自分が街中でレコーディングしたこと、アルバムが完成したことを彼に話す。彼もレコーディングを終え新しいアルバムを出し、一時の自由さは少しなくなっていたものの、ミュージシャンとしては上手くいっているようだった。

グレタはクリスマスに、自分が書いた曲、Lost Starsをデイヴにプレゼントしていた。しかし、そんな思い出の曲がデイヴのアルバムの中ではアレンジされ、本来の曲の良さが無くなってしまっていることを知る。曲の感想を求められたグレタは本当の事を伝える。

「製作段階で曲の良さが消えている。私はバラードとして創ったのに、まるでポップスみたい」

それを聴いたデイヴはすぐさま「それは、曲をヒットさせるためにやった」と返すのだ。その表情はそれのどこが問題なのかわからないと言わんばかりだった。
「歌は繊細なの」と言うグレタの言葉に、この曲が生まれた意味や背景を大切にしていたことがわかる。デイヴはグレタに次のライヴに来て欲しいと誘った。グレタは原曲のままのアレンジでLost Starsを歌ってほしいと伝える。

そしてライヴの日、グレタは会場に足を運んだ。そこでデイヴの歌うLost Starsを聴く。オリジナルのバラードアレンジのままで。しかしそこには、かつて自分が愛する人に送った曲の面影はなかったのだ。グレタはLost Starsが彼と彼のファン達のものになっていることに気付いた。それはアレンジの問題ではなかった。

「あなたに捧げるつもりで歌ったの」

そう言って送った曲なのに。「知って欲しいんだ。どんなにみんなが君の曲を愛しているかを」デイヴのこのセリフが妙にきつい。浮気は許されてはいけないが、デイヴも決して悪い奴ではないのだ。かつての恋人が自分に贈った曲をみんなに聴いてもらいたい、ヒットさせたい。という、偽りのない善意でこの言葉をかけている。みんなって誰よ。そのみんなが喜べば、この曲を作ったグレタが違うと思っていてもいいのか。誰と分かち合うのが幸せなのか。
Lost Starsは、ふたりの思い出の役割をもう終えていた。それに気付いたグレタは、泣きながらも、解放されたような清々しい顔でライヴハウスを後にし、自転車を漕ぎ出して帰路に着く。


「奇跡のような瞬間をつなぐこと」を担える喜び


この映画は「大事な人が離れて行ってしまっている似たような境遇だったふたりが出会い、お互いに影響し合って前を向いていく。気持ちがぐちゃぐちゃになることもあるし、思ったような言葉がかけられない事もある。でも少しずつ前に進んでいく」そんな作品だけど、曲が良いとか、見れば前向きになれるとか、それだけではない。

ダンは今まで自分が感じたことや聴いた音、知り合っていった人や、楽器の技術、音楽の知識、秀逸なアイディアのピースを使って一瞬しか完成しないパズルを綺麗に仕上げていった。一度は成功し、その後挫折もしたけれど、つなげる役割を担える幸せを、また感じることができた。今まで誠実に音や人と向き合っていたおかげで。しかもそれは期せずしてそれを自分の家族の修復にもつながっていった。映画のストーリーとして安易にハッピーエンドに向かって行っているのではない。リアルな世界でも起こりうるような、成功につながる要因が実は所々にある。

良い音って、良い空間って、本当に小さな奇跡の連続だったりする。アーティストへの、楽曲への、意味あるリスペクトの先にその奇跡の瞬間が訪れる。しかも不思議なことにそういった瞬間には、嬉しい偶然が引き寄せられる。ミリアムに「あの子下手よ」と言われていたバイオレットのギターの音が、良いアクセントになったり。レコーディングに参加したヴァイオリンとチェロの姉弟は、あのままヴィヴァルディばかり弾いていたら到底会えないような別のジャンルのアーティストと打ち解けていったり。なんでかわからないけど、そういう偶然が人を夢中にさせてしまう。

「じゃあまた近々」アルバムが出来上がってダンとグレタがハグした後のあの瞬間、実はふたりとも分かっていたのかもしれない。これがずっと続くことはないってこと。確かにあったけど、夢みたいな現実だったこと。仮に同じことを続けたって、最初と同じ輝きは見れないということ。街を回りながらレコーディングした日々も、一回きりの舞台も、ライブもそう。「夢と空想から抜け出せないわけじゃない」夢みたいな日々、また同じようなことを今度は世界中でやって…なんていう淡い想像。LostStarsの最初の歌詞を勝手に当てはめてしまう。でもその時間が、次の一歩への助走になる。ハグした後の二人の表情が儚くて、美しくて、自然と泣いてしまった。これから頑張ることが、アーティスト活動なのか、仕事なのか、恋なのかはわからないけど、これからはグレタが作ったアルバムの曲たちが、あの奇跡みたいな日々の記憶の付箋になって後押ししてくれるだろう。

何もないところから創り上げていく瞬間を、音が曲になるだけじゃなく、人がつながっていく瞬間のその刹那的な輝きを逃してはいけない。私たちはただ、その瞬間にしか起きない奇跡を、その瞬間にしか起きないことをわかりながら感じることしかできない。
その魔力に取りつかれてしまうと、本当に一生抜け出せない。頭の中で鳴っていた音が、描いていた光景が目の前で始まる喜びは何にも変え難い。ここまでビジネス的にプロデュースやマネジメントをしたわけではないのに、「創りたくてたまらない」欲を思い出させてくれる映画だった。音楽で人をつなげる仕事をしたい。漠然と、でも実直にそう思っていた数年前の自分がこの映画を観たら(観てしまったら?)きっと、この美しい世界にもっとはまっていただろう。

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