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【百年ニュース】1921(大正10)4月17日(日) 千葉心中の醜聞で人目を避けて暮らす伯爵令嬢,芳川鎌子が腹膜炎で死去,享年31。父芳川顕正が存命中は密かな仕送りあったが1月に死去。前夫の芳川寛治襲爵すると資金が途絶え生活に困窮していた。喪主は元お抱え運転手の出沢佐太郎。

鎌子は芳川顕正伯爵の四女。鎌子と結婚し芳川家の娘婿となった夫の芳川寛治は旧姓曾禰寛治で曾禰荒助の次男で、東京高等商業学校(現一橋大学)から三井物産に入った御曹司。

寛治は身持ちが悪く,妾宅に出入りし,鎌子との実質的な結婚生活はすぐに破綻。芳川家の自動車導入時運転手として寛治は元三井物産の運転手だった倉持陸助をお抱え運転手として招く。淋しき鎌子は倉持陸助と恋仲に。

その事実が露呈し鎌子と倉持は引き離されそうになるが出奔,1917年3月7日千葉駅近くで電車に飛び込み心中を図る。このとき鎌子は27歳,倉持は24歳。二人は命を取り留めるも,倉持は短刀で喉をつき自殺。

この事件は千葉心中として大きく報道される。父の芳川顕正はこのスキャンダルにより枢密院副議長を辞任。

鎌子はしばらく病院で療養生活を送ったが,倉持の後釜として夫寛治が再度三井物産からスカウトしてきた運転手,出沢佐太郎とまたも恋仲となり駆落ちすることに。

このような鎌子だったが,父の伯爵芳川顕正は密かに仕送りをして二人の生活を支えた。ところが1921(大正10)年1月に父顕正が死去,前夫寛治が伯爵の爵位を受け継ぎ芳川家当主となると仕送りを中止。鎌子と出沢は資金が途絶え生活に困窮。鎌子は腹膜炎が悪化し死去した。

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『千葉心中』
歌:桜井敏雄
作詞:淡路美月

ああ千葉行きの終列車
両国橋の停車場に
手を取り合うて影二つ
千葉へ千葉へと死出の旅

千葉の宿屋の田川屋に
暫し浮寝のたびまくら
蜜より甘き恋の味
死さえ恐れぬ恋の味

寝乱れ髪のうつくしや
女神のような寝顔をば
月もねたんで覗きこむ
有明方のガラスごし

その次の日の暮れがたに
千葉の名所の絵葉書に
思い思いに遺書をかき
二人は宿を立出でぬ

陸助堪忍しておくれ
何を仰有る奥様と
手と手は堅くしっかりと
幾度も幾度も握らるる

程遠からぬ海岸に
来ればさざめく女男波
さながら昔の塩屋浜
ありありとして思わしむ

浜を離れてまた二人
鉄道線路に歩みゆく
恋の終りを誰か知る
ああけたたましい汽車の笛

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