波乱の人生〜最大の試練〜

大手術を終えた娘は、翌日に「アイスたべたい、、、」と言って先生に特別許可をもらい、3日目にはお気に入りのスパイダーマンの被り物をしておどけて見せ、5日目にはスパイダーマンの全身タイツを病衣の上から着て元気一杯。7日目の退院の日は、娘2へお見舞いでもらったラプンツェルのドレスとティアラを着けて、ナースステーションへ挨拶に行った。

大きな山を乗り越えた私たち家族の住む森は、紅葉して見事に色付いていた。
雪が積もり始めた12月6日の夜中、寝ていた私を遠くで呼ぶ声で目が覚めた。

「ゆみ!救急車呼んでー!」

占い師の仕事部屋から声が聞こえた。
床に横になって脂汗をかき、苦しそうな表情の占い師がいた。腕を組み寒そうな様子だった。頭痛がするので暫く様子をみてたけど、いつもの頭痛と違うから救急車を呼んで欲しいというのだ。占い師は高血圧家系だったので、いつかはこの時が来ると心の準備は出来ていた。

すぐに救急車を呼んだが、森の中だったからなのか到着まで8分ほど掛かると言われ電話を切った。私は占い師に右と左、どちらか痺れている感じがあるか聞いたがハッキリした症状はまだ出ていなかった。一先ず話は出来る状態だったので、救急車が来る前に玄関の鍵を開け、携帯で私の父へ連絡し、救急車で運ばれた後の子供達の事を頼もうと思ったが、夜中3時だった為連絡が取れず困っていた時、占い師の部屋から「う”う”っっっ!!」という声にならない音が聞こえた。
駆け付けると、占い師は白目をむき、てんかんの発作の様に全身硬直していた。顔色はみるみる血の気が引いて白くなっていった。何が起きているのか判断する為に、声を出さず静かに占い師の呼吸と心臓の音を確認した。
心臓は動いている。
イビキの様な喉の詰まった音がし始めたので、呼吸は出来ていない様だ。占い師の口を開けようとするが喰いしばっていて全く開かない。そこで見つけたのが親不知を抜いた後の指一本分の隙間だった。私はすぐに人差し指を喉の奥へ差し込み、気道を塞いでいる舌を押さえて気道確保した。するとイビキの様な音は消え、わずかだが呼吸ができている様だった。

片手で電話を持ち再び119番を押した。
私「さっき救急車を呼んだものですが、呼吸ができなくなってます。まだですか?!」
救急「今近くまで来ています。反応はありますか?」

というやり取りの最中に、急に占い師の力が抜け口が開いた。
「、、、、、」
占い師の肩を強く叩いて呼びかけると、寝ぼけている様な声で反応があった。

私「意識あります!」「もうすぐ救急車来るからね!頑張って!」
救急「そのまま声をかけ続けてください!」

「ピーポーピーポー」

私「あ、救急車が見えました!」
救急「玄関は開いてますか?」
私「はい、開けました(さっき開けといて良かったー!)」
救急「では救急隊は入って大丈夫ですね?」
私「はい。2階にいますから上がって来てください」

3名の救急隊が担架や救急道具を持って上がって来た。
救急隊「○○さーん!聞こえますかー!?」
占い師「んー、、、」
救急「右手、挙げてみてくださーい!右手!  左手は挙がりますかー!」
占い師は言われた通り(間違えていたが)の動きをゆっくりしていた。

救急隊「血圧216あります。くも膜下ですね」 「救急車には同乗されますか?」
私「いや、、、小さな子供がいるので置いていけません。病院が分かったら私の携帯に連絡ください」
救急隊「、、、、分かりました。」

占い師「寒い、、、寒い、、、」
救急隊「うん、寒いね。毛布かけるからね」「奥さん、搬送先○○病院に決まりましたので、準備が出来たらいらしてください。」
私「実家に子供を預けてからじゃないと動けませんが、大丈夫ですか?」
救急隊「はい。検査などがあるので(手術は)朝になると思いますよ」

父と連絡が取れたのは6時頃。それまでの3時間弱、私は何をしていたのか覚えていない。
これから何をすべきか、どうなるのか、興奮してまとまらない考えをまとめようとしていたのだろう。その時間があったから、私は落ち着きを取り戻し、朝になるのを待って息子に状況を説明し、娘2と息子2を起こして出かける準備をし、車に乗せて実家へ向かえた。

お気付きだろうか、、、?
救急隊が来ていたこの騒動の中、子供達全員が静かに寝ていたのだ。
この騒動の最中に起きて泣き出されでもしたら、きっと私はパニックになっていたか子供を叱り飛ばしていたに違いない。
なんていい子たちだ、、、w

手術は無事に終わった。
病名は『前交通動脈瘤破裂』ちょうど、眉間の辺りで交差している太い動脈が破裂した。
前頭葉に相当なダメージがあった。それは今後改善しない事、後遺症がどの様な症状として出るか分からないが、感情や記憶の領域に出るだろうという事を告げられた。

急性期が終わり一般病棟へ。一般病棟からリハビリの為、自宅近くの病院へ転院したのが発病して3ヶ月目だった。
見た目はかなり元に戻った様に見える。自立して歩けるし、会話も出来るまで戻った。
しかし、排泄コントロールが出来ないので常に紙パンツだし、時間の感覚も分からなかった。自分の年齢も、中学生だったり30代だったり。今食べていた事も忘れ、目の前にある自分の食べ終えたお菓子のゴミを見て、娘2が食べたと言った。
奇跡的に私と子供達の事はしっかり覚えていた。
娘2はそんな父親を「バカになっちゃった。昔のパパがいい」と言った。
『高次脳機能障害』という診断が下り、精神障害1級を取得。福祉施設に入居したのは年が明けて春になっていた。

その年、娘2は幼稚園に入園した。入園式の集合写真に父親は写っていなかった。


波乱の人生〜始まり〜へつづく

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