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完璧主義の友人に捧げる不完全な文芸集:形に残すことの大切さ

大掃除をしていると大学時代のものが色々出てきた。
その中にあった一つの冊子。

その冊子はある人へ捧げる友人たちの文芸集。
もうその人はいない。

ここから先は「本当のこと」と「記憶を美化した私の思い込み」が混ざっています。


完璧主義者で書いては消してを繰り返していた文芸好きの友人

その人は大学時代にとても仲の良かった友人。
北海道から京都にやってきて、知り合いがいなかった私がサークルで出会った人だった。

中高一貫の名門男子校出身で、アニメとカラオケが大好き。
身体はガリガリで青白く不健康そうに見える。
ただ、天下一品のラーメンが大好きで、よく食べる人だった。
私はその人にアニソンカラオケの楽しさと天一の美味しさを教えてもらった。

その人の趣味は文芸で、読むのも書くのも大好き。
高校生の頃は友人と文芸誌を発行していたらしい。
ただ、大学生のころは「辻褄が合わない」とか「うまく言葉で表せない」と書いては消してを繰り返す姿しか見ていない。

ゼロからある世界を作り上げるのは大変だ。
小説を書いたことが無い自分でもそれくらいはわかる。

一方で「まずは作り上げて後から直したら良いんじゃない」とも私は思っていた。
だけど、本人曰く「後から直すよりまず世界観を作り上げたい」とのこと。
「そういうもんなんだな~」とのんきに思っていた。

そう思って過ごしていたら、突然その人はいなくなってしまった。

いなくなると感じる「形あるもの」の大切さ

そのときの感情含めて文字に残したい

「いなくなった」の詳細はあえて書かない。
ただ、残された側として思うのは「その人のことを覚えておきたい」ということ。

私は結局、その人の作品を一つも読んだことがない。
作りかけの作品は彼のパソコンに入ったまま、誰も開けない状態になってしまった。
サークルで旅行したときの写真や、一緒にご飯へ行ったときの記憶はあるけれど、それでも本人が拘っていた作品は読んでみたかった。

同じことを思っていた人は他にもいたようで、その年の学園祭で彼に捧げる文芸誌を出すことになった。
参加したメンバーのテイストはバラバラだし、短期間で作った文章は粗々。
それでも共通しているのは、彼との思い出が伝わってくる文章であること。

今回の大掃除で出てきたのはこの文芸誌。
10年以上昔の出来事だったけど、紙として残っているからこそ今も思い出せる。

私自身も元々は完璧主義者で、頭の中でまとまるまでは文章に残したくないタイプ。
それでも未完成、曖昧、ふわふわした内容でも残すことで後から振り返ることができる。

この出来事も私の中で消したくない、だから曖昧な状態でもこうやってnoteに書いてみた。
今後も自分自身の体験を残すためにも、他の人のことを覚えておくためにも、ふわふわした記憶を文字に残そうと思う時間だった。

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