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悪魔との決別

「貴方は小説をなぜ書き始めたのですか」
「貴方はなぜ小説を書いているのですか」

 以上は小説を書いていることを明かした場合、聞かれることが多い二大質問リストだ。前者については簡単である。イラストレーターをやっている友人が俺が表紙を書くからラノベを書いて即売会に出してみろ、と言ったのが始まりである。イラスト料無料と聞いて自分は張り切り、小説を刷り上げた。それでいつしか、即売会に向けて同人作品を書くことが自分の中で定番化したのである。

 ところが後者については答えが詰まる。どうして書いているのかと言われても、書くことは自分にとって食事と同義である。人体にとって重要な栄養素は糖質・脂質・タンパク質の3つらしいが、自分の場合はここに文章を書くことが加わる。これは私にとって比喩ではない。文章を書かない期間が続くと心身のどちらかに不調が現れるのである。

 だが、そんなことを話しても変人扱いされるか酷い場合は付き合い方を見直されてしまうので、とりあえずの答えとして「人間に対する理解を深めるためです」と答えるようにしている。ついでに「学問や論理では通用しない、感情の世界を学ぶためです」と説明すると納得したような表情をしてくれる。

 普段はこれで良い。文章は書けており心身に不調がなく、周囲の人間関係も成立させている(それに上の答えも嘘ではない)。ところが、これが何らかの事情で文章が書けなくなったりすると厄介なことになる。端的に言うと、これまで言葉にしてこなかった……、いや、できないでいる疑問が、悪魔となって首をもたげる。

ーお前はなぜ小説を書いているのだ?書いている意味などないではないか。

 と囁く悪魔である。この悪魔が相当に厄介で、これに憑りつかれた数え切れないほどの物書きが筆を折ってきた。小説をイラストという言葉に変えれば絵描きも同様だろう。だから考えずにそこそこにしておくのが良いのだが、文字が書けなくなって暇になると余計なことを考えだすものだ。自分がそこそこに自身を持っているストレス耐性、メンタルに対する強さも、この悪魔に対してはとんと弱い。

ー貴様の小説などつまらん。つまらんものを書いて何になる、無意味だ。無意味なものに浪費する人生ほど禄なものはない。創作活動など辞めたほうが建設的ではないか?

 弱っていることを見るや否や、悪魔はさらにこう続ける。書いた小説が実際に面白いかどうかなど、本来的に自分には分からないことである。そもそも太宰治や夏目漱石でさえ、読んで万人が面白いと口をそろえる小説などは存在していない。悪魔はそこを着け狙うのである。こうなってくると先達の作品は、全て作者の人生がかかった名作に見えはじめる。当然、自分の作品はそれらと比較して路地裏に捨てられた空き缶のような存在である。とてつもない自己否定が始まる。

 これが始まるとまず第一に、食べ物に対する関心がなくなる。食事は人類にとって原初にして最大のエンタメなはずであるが、もともと少ない食欲がさらになくなる。睡眠も不定期なものになり、言わずもがな性に対する欲求も落ち込んでいく。食事は栄養の摂取に、睡眠は覚醒状態との区別がつかなくなり始め、性欲は枯れ果てる。特に最後の一つは深刻で、一般的な生物として欠陥なのではないかという疑念が生まれはじめる。

ー自分は創作者としても、人間としても失格なのではないか?

 と考える、太宰治が手を叩いて喜びだすようなメンヘラ青年がここに爆誕する。芋蔓式に自分が過去に引き起こした忌まわしい記憶がよみがえったりする。四宮はお世辞にも褒められたような子ども時代を過ごしていない。その記憶までもが悪魔となり、自分を責め立てる。世間が敵であり、親までもが敵であった自分のある時期にとって、創作物だけが自分の味方だった。創作に対するあこがれはその時期からだが、結局はそれすらも現実からの逃避に過ぎないのではないだろうか。

 思考だけがぐるぐると回る。自室の布団と手元のスマートフォンの光だけが友人となり、それ以外のものは何もなくなる。メンヘラの男ほど気持ちの悪いものはない。バケツを持って正常に戻るまで廊下に立たせておくのが良い治療法であり、それを内包している自分につくづく嫌気が刺す。ああ、恥の多い生涯を送って来たものだ。結局自分にはまともな人間の生活など全く想像ができない、欠陥品だ……。

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……とまあ以上が、一、二週間ほど前までの自分である。

 今、こうやって吞気にエッセイを書けているということは、そこから少なからずある程度復活したということである。助兵衛なイラストを見ても相応に反応する程度には、身体も健康体だ。

 幸いなことに、私はこうしたメンタルの不調を滅多に他人に漏らすこともなく、相応に取り繕って周囲とかかわることが可能である(配信もできちゃうんだ、すごいだろう)。そこで私はDiscordに入り浸り、VTuberの仲間たちやValorant友達とゲームをしたり雑談をする。病人が軽井沢に静養しに行くようなもので、直接的には関係がなくとも、緑豊かな自然が人間の病んだ身体を癒すように、良好な友人関係はそれ自体が心身を修復する機能を持っている。

 そしてどれだけ腹が減っていなくても三食を胃袋の中に詰め込み、眠くなくても時間になったら床に就く。小説家としては否定したいところだが、結局は身体的なルーティンの再構築が、結果として心を治していくらしい。これを無感だろうとなんでもいいので真面目にやると、数日もすれば改善がみられ、一週間くらいでほぼいつもと変わらない程度の体調まで戻った。両親は、回復力に関してはかなり強く産んでくれたらしい。

今となってはなぜあのようなことを考えていたのかさっぱり分からない。

ー人間失格だろうと、構わないではないか。

 この結論を今では得ている。もとより人間的に合格な奴などそうそういるはずがない。そして小説は本来的に答えがないものであり、ないはずの答えを探して模索することそのものが、小説を書くということの楽しみのはずである。

 だから次の作品では、そういったことを書きたい。人間失格上等である。私はもともと人間の正とされる部分より負とされる部分に対して注目したいと考え、実際にそのように小説を書いてきたつもりだ。正とされる部分はみんなが見ていて気持ちいいと思うため、放っておけば誰もが表現したがるためわざわざ自分が取り上げる必要もないのである。
 
 負の部分はそうではない。誰もが見たくない。だからこそ、小説というオブラートが必要になるはずだ。文章力と構想力で以て人の目に耐えるものに加工させてこそ、初めて負の部分は読み手の目に触れるに値するものとなるはずである。エッセイについても同様である。扱っているのは自身の体験だとしても、それを文書や写真、イラストによって加工して初めて他人の目に耐えうる作品となるはずだ。

 安藤たかゆき先生という漫画家さんがいらっしゃる。ひょんなことからご縁を頂いてTwitter上でのお付き合いが続いている方である。先生はご自身の暮らしをエッセイとしてTwitterにアップされている。

 先生の暮らしは発見に満ち溢れている。近所の川が綺麗だったこと、洗濯機が壊れててんやわんやしたこと、友人が家に来ておしゃべりしたこと……どれもが新鮮な描かれ方をしている。そしてそのどれもが魅力的だ。

 ただ、この日常は自分もある程度経験しているはずである。近所の川は桜並木が綺麗で、春夏秋冬どれをとっても魅力的である。iPhoneを壊してしまい、新たなものを購入するのに手間取った。この前は友人と飲みに出かけた。

 自分はこれを書いているか?あまり書いていない。安藤先生は見つけて、それを書いている。どうやら私はまだ書いていないものがたくさんあるらしい。自分の日常も文章も欠陥品かもしれないが、世の中には書きたいものがありすぎる。世間はあまりにも魅力的だ。人生一回程度では書ききれないことはわかっているのだから、下らないことで悩んでいないで書き続けることが得というものだ。

 すまん。太宰治。お前は確かに人間失格かもしれない。お前がそうやって書いているんだから、きっとそうなんだろう。だがそれでいいじゃないか。いくら自分が人間的に欠落していようと、世の中には書きたいものがたくさんある。それを書きおこしていけばいいと思うんだ。

 大体メンヘラじみた四宮など、キャラデザに合わないだろう?

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