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未来を紡ぐひみつきち #6

「リディオ、あそこ」

 指さしたほうへ目をやると、織り重なった木の葉のあいだに人が見えた。ずいぶん高い位置にいる。枝をまたぎ幹に寄りかかって項垂れている。一目でヤンだとわかった。
 下降を始めると、呼びかけようとしたものかゲンランが大きく息を吸い込んだ。リディオはとっさに腕に力をこめて制止する。灰狼(イーニィ)族の連中がどこで待ち構えているとも知れないのだ。

 頑強そうな枝を選んでそっと降りた。かさかさと、梢が揺れる。
 ちょうど体ひとつ分下――ヤンの顔を横から見上げるかたちとなった。

 ヤンは目をつむっていたが、音に気づいたか気配を察したものか、ふとまぶたを上げてこちらを見た。光の失せた瞳が億劫そうに動く。

 ヤン、とゲンランが小さく呼びかけた。

「……泥だらけじゃねぇかよ」

 ヤンが苦笑した。ゲンランはぐっと喉を鳴らした。ヤンだって、と言ったあとは、もう言葉にならなかった。

 ヤンも、ゲンラン以上に土まみれだった。露出した顔や腕、足にいくつも擦過傷がある。左足首――ちょうどリディオ側に垂れている足首も腫れあがっていたが――爪や牙で裂かれたような痛ましい傷は見当たらない。少しだけ、ほっとした。

「……大丈夫なのか」
「大丈夫じゃねぇよ」

 そう言って、ヤンは笑う。
 いてて、と呻いて脇腹をおさえた。

「途中ですッ転んじまってさぁ。倒れた先がちょうど窪地で、すげぇ勢いで落っこちたんだよ。そんなに深くはなかったけど――腹も足も腕も痛ぇ」

 そう言って――やっぱり、笑う。
 なんでもないことのように、明るく。

「――奴らは」
「諦めてどっか行っちまった。あいつらさ、あんだけ威張り散らしてるくせに木登りもろくにできねぇんだぜ。だせぇよな。――ほんと」

 声が、ふるえた。ヤンがうつむく。

「――クソだせぇ」

 雨に濡れた枝の上で、ぐ、と握られた両拳。濡れた前髪から滴り落ちる雫。

 リディオはふわりと脚を浮かせた。
 周囲に人気のないことを確認して、まずはゲンランを地面に下ろす。それからふたたび上昇し、ヤンをそっと抱えて降りた。ゲンランにおぶらせるように背中に乗せる。

 ヤンは一度も顔をあげず、なにも言わず、ただただ拳を握っていた。

 リディオはゲンランを見下ろして。

「ここからだと、黒烏(スマル)の邑がいちばん近い。……道、わかるか」
「わかる――けど」
「レゼルに、――さっき居た、俺の弟。あいつに事情を話せ。俺が介抱を頼んだって言えば――大丈夫だから」
「リディオは?」

 ゲンランが不安そうに見上げてくる。ヤンの後頭部がわずかに動いた。
 安心させるように、リディオはゲンランの肩を軽くたたいた。意識的に口角をあげる。

「すぐ、戻る」

 翼を広げた刹那。

「リディオ」

 制止するように――手首を掴まれた。ヤンである。
 ヤンはゲンランの背中に顔をうずめたまま手の力を強くした。リディオはなにも言わなかった。翼を閉じることもしない。ただ己の手首を掴んでいる小さな手と、小さな後頭部とを見つめた。

 やがて――ヤンの手から力が抜けた。

「……俺を追っかけまわしたのは下っ端の二人だけだった。マグィはたぶん、ひみつきちにいる。絶対に、おまえから手ぇ出すな。あいつら――わかってる」

 嗣子同士の諍いが――何を、招くか。

「ああ」

 ――わかってる。
 ヤンの手が落ちるように手首から離れた。と同時に、リディオは翔んだ。

 ひみつきちのある沢は、直線距離をゆけるリディオにとってはほとんど目と鼻の先である。すでに撤退しているかもしれない――とは、思わなかった。マグィの口ぶりからしても、おそらく、本当の狙いは自分なのだろう。


 むかし――。

 亡き母から、寝物語として聞いたことがある。

 それは四匹のモグラの兄弟の話だった。
 家族で掘った家の中で、どこを自分の部屋にするかで大きな兄弟げんかが起きた。
 最初に脱落したのはいちばん小さな末の弟。のんびり屋の三男坊がもうけんかは厭だと離脱して、残った頭のいい次男坊と力の強い長男坊が勝負をした。
 勝利を収めたのは長男坊でみごと広い部屋を獲得する――のだけれど、じつはそこは日の当たらない、冬はひどく寒い部屋。対して次男坊の手に入れた部屋は、広さでは劣るものの日当たりがよく、冬でもぽかぽかと土の暖かい部屋だった――というものである。

 これはたぶん四ツ族の歴史をなぞらえて作られたのだろう。実際、黒烏族の邑領は豊かである。

 一緒に聞いていた弟レゼルは、次男モグラはわざと負けたんじゃないかと言っていた。だって頭がいいんでしょう、と。

 母は、否定しなかった。

 ――同じような寝物語が灰狼族にもあるとしたら。もしも――次男モグラであるところの黒烏族が自分たちを騙して豊かな土地を手に入れたのだと――伝えられていたとしたら。

 その可能性は高いと、リディオは思う。そうでなければ、黒烏族の入れ知恵か、なんて言葉はきっとマグィの口から出てこない。よからぬたくらみが――なんてことも、言われない。

 リディオは静かに、ひみつきちに降り立った。

「――来ると思ってたぜ、黒烏族の」

 灰狼族は、やはり居た。
 沢を背にして三人が、それぞれ岩に座っていた。

 声を発したのは頬に傷のある青年だった。岩から飛び降りるようにして立ち上がる。それに続くようにもう一人、肩に傷のある青年も岩から降りた。

 二人の奥に――王者のごとく、マグィが座っている。

 岩の縁に引っ掛けるようにして左膝を立て、左肘を乗せて、真っ向からリディオを睨めつけている。右手の中でくるり、くるりと回しているのは――ヤンの短剣か。

 腹に燻っている熱が、にわかに烈しさを取り戻す。

 ゆっくりと、息を吐いた。
 『あの日』の二の舞に――なってはならない。

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