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【エッセイ】父とのカルマが溶けた日

 僕は父のことがきらいだ。今でもけっこう苦手。

 なぜこの家に生まれたのかと自分の運命を呪ったときさえあった。きっと僕はあの人の血を継いでいない、と。


 絵に描いたような「昭和のガンコおやじ」。特に若かりし頃は思い通りいかないとすぐにキレては暴れまわっていた。

 夕方に父が少し早く帰ってきた。母がまだ夕飯の支度にてんやわんやしていると、「俺のメシがないなんてどういうことや!」とわめき散らす日常。父よりも先に席に座っていることは絶対。家族全員で夕飯を食べることも絶対。

 二階の子ども部屋にいた時、下から大きな音がして、一階のリビングに行ったところで時既に遅し。”テーブル返し”の後の祭りだった。

 皿が床に割れ重なる。擦れ違った父は無言で財布と車のカギだけを持ち作業着のまま玄関が壊れるほど強く投げ閉める。キッチンですすり泣く母。そのかけら拾い集め、母は言う。「あんな男になっちゃだめよ」と。


 うちの父は俗に言う「二世」。

 と言っても田舎の零細企業。なんのことはないただの時代錯誤のおやじ。

 おじいちゃんは立派だったと思う。戦後間もなく会社を立ち上げ、育てたんだから。それを引き継いだ一人息子。妹さんが一人いるけど、そりゃあ会社を継ぐのは当然男。

 「金型屋」と言われる文字通り「自動車部品を作るための金属の型」を作っている。とはいえ町工場レベル。当時専務だった父も、スーツでなく作業着で毎日出かけて行った。

 父の帰宅は、その"工場臭さ"でいつもわかった。脱ぎ散らかされた作業着を母が拾い集める。そして僕ら兄弟にまた呟く。「洗濯機に入れてきて。これからは男も女も平等に生きる時代だからね」と。


 そんな父だけどとにかく仕事には熱心だった。夏でも冬でも納期の為なら朝から晩まで働いた。まだ暗い明け方、トラックのうるさいエンジン音でうつろに起こされると、それは父の出勤の合図だった。寝静まった頃にハイビームライトで起こされた夜もあった。


 幼稚園かもっと前からか、そして小学校低学年くらいまでトラックによく乗せられた。特に学校が休みの日なんかは、父はとにかく僕ら兄弟三人のどれかを連れて工場に向かった。

 車高の高いトラック。身長ほどある助手席に登るだけでも大変な僕を、ひょいと持ち上げては助手席に乗せる父。そして広がる非日常の眺め。

 シートベルトなんかしなくてもいい時代。運転中、ダッシュボードの上に乗れるほど僕は小さかった。そんなところに一生懸命納まろうとする僕を見て、父は笑った。

 ときには荷台に乗せてくれた。家から工場までの田舎道を十分ほど。晴れた日なんかほんとうに風が気持ちよかった。父はわざと蛇行運転し、揺れて落ちそうになりながらもしがみ付き、キャッキャとはしゃぐ兄弟達を、バックミラーで確認していた。ルーフトップによじ登ったときなんか海まで見えた気がした。そしてあとではいつも母に叱られた。
 いろんなことが違法行為であったり"ありえない話"だったので、今となってはの”時効話”として。


===

 「どうぞ乗ってみてください。吉本さんの車ですから。」

 時はかなり過ぎ、僕は四十近くになって初めて自分のトラックを所有することになった。

 納車前のある日。やっと中古車の車種が決まり、中の仕様の打ち合わせで業者の工場を訪れた時のこと。


 大きなドアを開け、ステップに足をかけ、運転席へと頭をくぐらせる。


 そのとき思わず出た第一声。

 「懐かしい」


 それが意外な言葉だったことを、担当者の反応で逆に気付いた。


ーいや、実は子どもの時によく乗ってたんです。父がそういう仕事をしてまして。さすがに最近は実家に帰ってもトラックに乗ることはなくなりましたけど。なんていうかこの独特の匂い、久しぶりに嗅ぎました。油と金属の混じったような。乗用車とは全然違う。あとこの直角の椅子。露骨なラジオ。窓のボタン。当時はクルクル回すやつでしたけどね。それでもトラックの基本形って、全然変わってないんですね。ー



 今でも父のことは苦手。

 それでもトラックを通じてわだかまりが一つ溶けた気がする。溶けていく気がする。


 不思議と怖くない1.5tトラック。

 ただただ懐かしさがこみ上げてくる。

クスっと笑えたら100円!(笑)そんなおみくじみたいな言霊を発信していけたらと思っています。サポートいつでもお待ちしております。