【実録】僕の躁鬱日記3~そして世界へ~

2011.3.11

思い返せば、2010年は光と影を見た。

過労から躁鬱状態となり、水風船のようにパチンと今にも弾け散りそうな不安定な日々を過ごしながらも、なんとか年を越せた。(日記1~2参照)

かと思ったら、大好きだった彼の前でボロクソに泣いてしまい、しまいには病院送りに。会社には内緒での通院生活が始まろうとしていた。


企業としての”年越し”である年度末3月決算に向けて、様々なプロジェクトは大詰めを迎え、僕が涙を流しながら進めてきた仕事も、カタチとなってその集大成を現してきた。


そんなことなんて構いもせず、地球は、世界は、一瞬で変わった。


あれが金曜日だったことを今でも明確に覚えている。しばらくすればまた平穏無事な世界を取り戻せるだろうと、そんな気でいた。土日に携帯を握りしめて寝てはいたが、人一人ができることなんて、もう既に、なにもなかった。


週が明けたら、世界は変わっていた。サイレンはなり続け、原発は爆発し、人は路頭に迷った。


目の前には、僕が創り出した数億円の請求書。そもそもこれはなんのためのお金なのか?勿論自分がやってきたことに後悔はなかったし、この請求額が高いとも思はなかった。もらって当然の”報い”だと思った。

でも、この変わってしまった世界に、僕の創り上げたものは本当に必要なのか?未来への迷いが生じた。


クライアントだって、もちろん僕が作り上げてきたものにイチャモンをつけるような人は一切いなかった。むしろ「今までのことは大変感謝していますが、”あの事件”が起きてしまった以上、これから新しく仕事を頼むことは・・・」と言われ、信用している相手だからこそ、世界が変わった日の後もお互いに妙に冷静で、それがむしろ怖かった。きっと誰しもが、測り知り得ぬ恐怖感に襲われていたと思う。


余震は続いた。高層マンションで一人暮らしをしている自分。虚しさ。自然界は毎晩のように僕を揺さぶりかける。

「大型テレビ」「高層階での夜景」

今まで追い求めてきた物が、一気に恐怖の対象へと反転した。

大型テレビは「落下物」という危険物となり、高層階というステータスはすぐに逃げられない「危険区域」となった。自分がいま居る場所が、本当におかしいと思った。


そして全ての予算が凍結され、日本中が喪に服した。


仕事は激減。僕は5時に帰れるようになった。

気づいたら僕に憑依していた躁鬱の化け物も、その場から立ち去るようになくなっていた。


2011年初夏。

僕は皮肉にも社長賞を取った。本社に呼び出され、派手なパーティーで、今まで喋ったこともない小柄なおっさん(社長)に、おめでとう、よくやった、と言われたが、僕は何も嬉しくなかった。ただ重たいだけのガラス製の盾を受け取ったが、一度もその封を開けずに、後に退社すると決めた際に両親にあげた。「これでもう、僕はこの会社にいなくていいよね?」と。


もう既に心は離れており、僕はこの仕事を続ける意味を失っていた。

出来高制でもなんでもないので、仕事が激減したからといって、給料はすぐに変わることはなく、しばらくはこのままいても、のうのうとやっていけた。


でも逆に悲しかったのは、それだけ2010年度に死ぬほど血を流して働いたのに、増えたお給料は年間たったの10万円だった。10万円。10万円・・・

10万円。それは頭がおかしくなるほど働き、レッドブルを飲み、カフェインをかっこみ、そして何よりも、自分の感情を失った代償か?

僕の頑張ってきた価値なんてそんなものなのか?年間数千万しかなかったアカウントを数億円にまでしてきたのに、そのあぶく銭はどこへ消えていってしまったのか?これ以上組織にいても・・・と、考えても無駄なことを考えてしまうだけで、ゾッとした。またあの"化け物"が、すぐ近くの物陰から僕を見ている気がした。

僕が震災後に最も寂しかったのは、そんなお金のことではない。クライアントの担当者に「ごめんね、もう仕事を与えられなくて」と言われたことだった。ああなってしまった以上、世界は、お金の使い方や人との関わり方を大きく転換させた。それは誰のせいでもない。世界がリビルドの時代に入ったというだけのことだった。

一緒に気持ちよく働いてくれていた当時の担当者さんら。今も元気かな?と思い出す。沢山のナントカさん。ナントカさん。「プロジェクト終わったら飲みに行きましょうね。」それも実現されることはなかった。

社長の顔なんて、今でも思い出せないのに。


世界が変わっても、大事だった人の顔は変わらずに、僕の心に残った。


僕は10万円という”手切れ金”をただただ握りしめてしばらく佇んでいた気分だった。


春は震災直後。夏は彼氏と時間をたくさん持てた。秋には退職願を出し、冬には退職した。

最後、約2カ月間たまっていた振休や有休を、全て申請して使おうと思った。上司からは、お金で解決してくれないか?と言われたけど、フザケルナ!と思った。今まで散々、会社は僕に我が儘を突き付けてきたのだから、最後は僕の我が儘を突き通した。

誰のおかげで社長賞がとれたと思ってんだ?

重たいガラスの盾を見せると、最後、大嫌いだった大人達は黙った。


僕にとって無意味なガラスの盾も、組織で生きるしかない人達には印籠のように効果があるんだなと思った。ただのガラスなのに。滑稽。


間もなく29歳。人生初めてバックパックを買い、世界旅行の計画を始めた。


2カ月で世界を巡る。一週間一カ国として、10週間で10カ国を目指した。全ては行ったことのない国。

グーグルアースを広げた。航路を調べた。エクスタシーが沸いてきた。

最初はリフレッシュの気持ちだった。旅から帰ってきたら、日本国内で転職活動をして、また働こうと思っていた。違う街で、違う仕事を。


でも世界は広かった。ただただ広かった。想像以上に。



インドでは死体が目の前で燃えるのを見、その周りでは子供たちが犬たちと元気に駆け回っていた。

イタリアのホステルでは、家も車も全部売り払ったオッサンと二段ベッドで一緒になり、俺は失うものがなにもないんだぞガハハと言われた。

北米では、ロシア系移民のゲイと仲良くなって、朝まで飲み明かした。自分の祖父はソヴィエトの弾圧から逃れて亡命してきたが、今ではこうして”アメリカ人”として仕事をし、ゲイとしても自由を謳歌していると笑った。

ブラジルでは、地方から出てきていたお兄さんに、僕を「人生初めての日本人友達」と認定してもらい、そして『日本の震災は大丈夫だったか?君の家族は?友人は?僕は日本に行ったことがないが、とても心が痛んだ!いてもたってもいられなくなった!君が、こうして生きて、ブラジルに旅をしに来てくれたことが嬉しいよ、親友よ!』と言ってハグをして再会を約束した。


世界に出れば僕の会社での悩みなんてクソみたいに小さかった。日本で「博報堂で働いています」なんて言ったら尊敬の眼差しだったけど、海外に出ればナニソレ?レベルなのである。

それよりも、日本人の僕が歩いているだけでチヤホヤしてくれたし、僕を人として扱ってくれた。心地よかった。


さぁ、ここからは「人対人」のはじまりはじまり。


「暇だし一緒に飲もうぜ。」

「お前おもしろいやつだな、ウチ来いよ!」

「君にまた会いたいから、連絡先交換しない?」


答えは僕が決めればいい。イエスorノー。

嫌なやつとはグッバイすればいい。金輪際、会う必要もない。


そして初めてのドイツ・ベルリン。12月。とてつもなく寒かった。

到着したシェーネフェルト空港から市街に向かう。そこに首都らしい煌々としたビル群は見当たらず不安になった記憶がある。電車は合っているのか?結果、ロンドン・ニューヨーク・パリ・トーキョー、そこに肩を並べるようなものはどこにもなく、ベルリンはただの「広い空き地」のような街だった。蓋を開けてみれば、東西統一から20年経った、今まさにリビルドをしている真っ最中の街だったのだ。

ひとりで飲みに行っても、隣のおばさんが声をかけてくれた。彼女が勧めててきた見知らぬ酒がうまかった。

クラブに行った。皆が音を楽しんでいる。女や男が目当てではない。そこにある音が目当て。音がある空間に幸せが広がり、そして人が繋がる空間。

3日間だけいる予定が、野菜も安いし酒も安いしと、だらだらと5日間もいてしまった。その後行ったガイドブックおすすめのドイツの古城はクソつまらなかった。もう二度と行かないと誓った。


ドイツを離れ、次の国へ向かう日。空港へ向かう電車の中。車窓。雪が止み、雲が開け、そしてドイツの空が僕に言った。


『来たかったら、くればいい。』

「来い」でも「来るな」でもない。命令なんて誰もできないのだ。

『お前がそうしたいなら、そうすればいい。』



半年後。僕はまたベルリンに居た。

家ゼロ。仕事ゼロ。友達ゼロ。ドイツ語ゼロ。

自分自身のリビルド。


日本での躁鬱期間がなければ、僕はドイツへ移住していなかったかもしれない。淡々とした仕事をしていれば、そのまま淡々と30代を日本という国で迎えていたかもしれない。


そして僕は10年間、この話をすることをやめた。話しても意味も価値もない世界に、自ら飛び込んだ。


そんな僕を、ベルリン人は最初から迎え入れてくれた。


公園の緑の上に座り込む。ヒッピーみたいな兄さんが僕に言う。

「お前はいま幸せか?」

そして僕は答える。


「Ja!Natürlich!!」(ああ、もちろんだよ!)


「それならよかった!ベルリン楽しめよ!乾杯!」

見知らぬ君と出逢えた。


ビールがうまい。

空が晴れている。


ー完ー

クスっと笑えたら100円!(笑)そんなおみくじみたいな言霊を発信していけたらと思っています。サポートいつでもお待ちしております。