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コップの淵から

水が溢れる、という表現をすることがある。
悲しいこととかつらいこととかが積み重なって、いよいよもう無理っていう状態になることを、(心の)コップの淵から水が溢れる、みたいに表現することがある。

確かにそういう感覚になることは幾度となくあって、「あ、今の、溢れさせる最後の一滴だったな」とか思うこともある。でもそれはこの慣用句に先に出会っていて、既にそういうイメージを刷り込まれているが故の感覚だっていう気もしてる。だからなんかむかつく。
普遍的な感覚を誰とも分からない先人に上手く言い当てられたことに? 先立って存在する表現に感覚側が引っ張られていることに? どっちだっていいけど。

自分の能力不足でうまくいかないことが連続したり、そこに体調不良とか環境要因とか自分ではどうしようもないことで行手を阻まれたような状態になったり。
そもそも人生全体で見たって、自分への不満は尽きない。生まれ持った諸要素・条件、最大限に頑張れていないこと、頑張ったとしても報われないこと、でもやっぱりそれは努力不足に起因することを自覚していること、他人からどう思われるかを未だに気にしていること。

不満は総じて、劣等感という言葉に置き換えられる。人と比べるなと本当によく言われる。でもそんなこと簡単に言える人は何の責任も負わないから。

劣等感を感じずに生きている日はない。大学生のとき、大学から帰宅途中に新宿で乗り換えたとき、大勢の人、人、人を見ながらその全てに劣っている感覚になったときのことを未だに覚えている。

今日は、ある人に甘えたくて所謂ダル絡みをしてしまったら、強く「うるさい」と言われたことがきっかけで、私の中の劣等感が溢れ出して夜中に独り泣いた。自業自得すぎる。それは承知の上で。
こんなことをここに書いている時点で、独りであることを拒んでいるくせに、独りだったことをアピールする浅ましさがある。

色んなことに思いを巡らせた。というか走馬灯のようにどんどん記憶の断片が頭を巡った。

新卒で入社した会社の上司に言われた小言、以前の恋人に吐いた愚痴、幼馴染みに言われた真理、偶然出会ったおばあちゃんとの会話、ここ2年くらいの生活、私の一番に君臨し続ける存在に選ばれなかったという事実。

止めどなく涙を流している自分を、脳内で俯瞰して見ていた。
誰かいいアングルで撮ってくれよ。いい画になるぞ。
と、何故か偉そうなことを思った。実際にそこにカメラがあったら思ったような写り方はしないだろうに。想像の中だけでしか自分に及第点をあげられない。
希望を妄想の中に埋め込んで、どうにか生き永らえている、不健全。

コップから水が溢れやすいのは、自分であらゆる重りをコップの中に入れて、嵩を増してるんだな。分かってるけど、これをアイデンティティとして手放せないことにも気づいている。

演劇が好きです。観て、考えて、書いて、読んでもらう。演劇はその場で消えてなくなってしまうけど、私たちが何度も思い出すことで永遠になるなんて、素敵だと思いませんか。 いただいたサポートは、演劇ソムリエとして生きて行くために使わせていただきます。