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老父のうつ病③


人生の夕暮れに乾杯

うつ病発症から入院まで

孫の結婚式

怒涛のような年末年始が、はるか昔、一年ぐらい前のことのように思える今日は1月21日。
息子の結婚式は先週13日に無事滞りなく、とり行われました。

結局父は回復せず、孫の結婚式には出席が叶いませんでした。

父は、息子にとっておじいちゃんですが、私がシングルマザーで仕事が忙しかったため、しょっちゅう泊りがけで世話をしてもらっていましたし、長期のお休みの時は、実家に預けることも多く、また家族旅行は、父、母、息子、私の4人で出かけるのが常だったので、役割としては父のような、母のような、兄のような、弟のような、時には下僕のような役割を果たしてくれていました。

娘の乱暴な子育てに、常に孫が不憫だという想いがあったのでしょう、孫にはべた甘で、甘やかす一方であり、ちびまる子ちゃんのおじいちゃんのように、ひたすらかわいがり、愛情を注ぎ、怒ったこともなかったと思います。

なのでコロナ禍の影響もあって、入籍より披露宴が後になり、その披露宴が人気の式場のため、1年以上先になると聞いたとき、父は大喜びして、また長生きする張り合いができたとカレンダーに大きなしるしをつけて、目標としていました。

わたしもえらい先だなぁとは思いましたが、親はいつまでも元気となんの疑いももっていなかったので、ホテルの前泊や後泊に、ホテルの狭いお風呂が苦手な両親のために、大浴場のあるホテルを予約したり、温泉地への立ち寄りを楽しみに計画していました。

前回、うつ病と診断されてから2日目のことを書きましたが、その時点ではまだ間に合うと思っていましたし、マンションの組合の理事長職を辞任させてもらい、息子がお正月に帰ってきたら、あれはなんだったのか?というくらいあっさり元気になると楽観していました。

うつ病という診断がリアリティをもって父の症状と重なるようになって、どうすれば早く回復するのか?と考えたときに、やはり抗うつ薬の処方が現実的なのだろうと思いました。

わたしは自分自身はよほどのことがない限り、西洋薬は服用しません。基本的には、なにも服まないか、漢方薬を短期間服用するくらいです。

でも父は、脳内出血で緊急入院してから、降圧剤をずっと服用していますし、緑内障や過活動膀胱、前立腺肥大で通院もしていたので、多剤投与の怖さを思いながらも、眠れないときに睡眠薬なしで、気分の落ち込みに抑うつ剤なしに、脳内のバランスを取り戻すことは不可能に思えて、早く相性のいいお薬を処方してもらうことが、一番優先されるべき解決策のように思いました。

指圧や鍼灸でわたしが治せるのではないか?とは微塵も思いませんでした。
リミットが刻々と迫る中で、そんな悠長なことをしている場合ではない・・というのが本音です。

東洋医学陣営としては、敗北かもしれませんが、薬を服用せず、自己治癒力で回復するのを待つには時間がなさすぎるという判断でした。

そのとき、わたしが頼りにしたのが、和田秀樹氏のこの2冊。

和田氏は老人の精神医療についての提言を数多くされているので、安心して読めました。

一番、わたしが頼りに思ったことは、認知症の治療は難しいが、うつ病は、はっきりと治療できる症状であること、薬があえば、治る病気であることを明言されていることでした。

いろいろと試している時間はない、これにかけようという思いでした。

そう思ったときに、父が脳内出血以来通院している病院は脳外科、内科しかなく、精神科はないこと、主治医本人に、ここには精神科はないし、紹介もできないから、自分で探してください・・と言われたことを思いあわせて、精神科の専門医を探さなければ!!と考えたわけです。

精神科初診受け入れ先がない!

もともと、うちの院には心療内科や精神科に通院されている方がよくおみえになるので、評判のよい院は、予約がいっぱいで、初診受け入れをなかなかしてもらえないことは、聞いていました。

そして、ときはもう年末押し迫った最終週ですから、かなり焦りながら、まずホームページを検索しました。

すると評判通り、よさそうに思える院はすべて年内の初診受付は終了、1月も終了、もしくはしばらく初診受付停止のまま再開の日が明示されていません。

途方にくれ、かなり追い詰められたきもちになってきます。

そして、一日経ち二日経ちしても、父の様子ははかばかしく好転しません。
私はまだ自宅と職場との行き来で気がまぎれる時間がありましたが、母がもう限界でした。

今まで我慢していた気持ちが暴発して、爆発的な怒りに、完全に彼女自身がのみこまれてしまい、傷つき、泣き、おちこむ。

暗澹たる思いの中、まだ父の発症から1週間も経っていないのに、こんなに人生っていきなり暗転したように思えてしまうんだと。

自分自身、とても楽観的に前向きに、人生をとらえ、歩いてきたように思っていたけど、ただそれは今までラッキーだっただけで、こんなに簡単にどん底みたいな気分になってしまうんだ・・・と、半ば唖然としていました。

よく眠れず、よく働かない頭で、とにかく父に合う抗うつ剤を処方してくれる精神科を探すことだけが、自分の命題に思えていました。

そして漢方薬局さんで、初診、どこも厳しいようですが、○○さんはこの間、初診を受けて下さって、先生も悪くなかったようでしたよ・・というお話を最後に教えて頂いていたことを思い出し、電話をすると、奇跡的にその日の夕方のラストの枠だけ空いているとのこと。

もう地獄に仏の気持ちで、予約を入れ、付き添いのため、本当に申し訳なかったのですが、その日受けていた自分の患者さんにキャンセルさせていただきました。

年末のことで、通常より前に1枠、うしろに1枠・・と拡充して、ぎっしりと受けている患者さんですから、本当に本当に申し訳なくて、深く深く謝りながらも、こんな追い詰められたきもちで、わたしが治療側にいることもまた申し訳ないことなので、葛藤に心引き裂かれながらの決断でした。

精神科初受診

相変わらず、能面のような表情のヨタヨタした父を支えながら、はじめて受診した精神科の医師は、プロフィールで拝見すると70代。

そこそこ高齢でいらっしゃることも、父にはいいように思えました。

そして、初診。

先生は、父にゆっくりゆっくり大きい声で問い、話を聞いて下さって、私はとても救われたような気がしました。

丁寧な問診、確実な処方箋。後ろにさがる一方だった父の様子が、それだけでも少しでも前進できるような気がしました。

内科で処方された薬は、抑うつ剤といえるような効果のあるものではない、胃潰瘍などに使う薬ですといわれ、睡眠導入剤もこれでは眠れないでしょうと、強いものを処方して下さいました。

転倒の危険性などの注意も受け、強い薬という表現に躊躇もありましたが、とにかく、不安を抑制すること、深い睡眠をとることが先決で、副反応や後遺症のことなどは後回しにせざるをえないという判断でした。

その晩はよく眠り、一晩に5、6回トイレに行っていたのが、朝まで寝ていて、ホッと一息つきました。

ただ、やはり強いだけあって、昼間も眠気が強く、食事や着替えも億劫がり、ベッドで寝ている時間が圧倒的に長くなりました。

そうなればなったで不安です。

直接、精神科の先生や薬剤師さんの話を聞いていない母はもっと不安がり、できていたことができなくなったと嘆き、本当にこれでいいのかと私に何度も問います。

これでいいかなんて、わたしにも全くわかるわけがありません。

自分自身にもまわりにもこんな急性のうつの症状の経験がなく、いくら検索して、同じような症状の方の体験談を探そうにも、もっと若い働き盛りの方や、認知症の親御さんの体験談はたくさんありましたが、86歳という高齢でのうつというのは、なかなか参考になりそうな症例を見つけられませんでした。

これでいいかどうかなんてわからない。

でも他に道がない。

それだけのことでした。

息子の帰省

そうこうするうちに、精神科も年内診察最終日となり、今処方されている薬のまま、正月明けを待ちましょうという診断になりました。

12月28日です。
父は眠気が強く、もう受診させるのも大変でしたので、私ひとりで薬の処方をしていただきに行きました。

そして、その日に息子が予定を少し早めて帰省してきました。

わたしも母も、そして息子も、息子と会えば、父に劇的な変化が起こるのではないかと期待をしていました。

でも、ミラクルはおきませんでした。

可愛い孫だとわかっている。
結婚式までもう少しであることもわかっている。

どうしよう、こんな状態では出席できない。申し訳ない…とは思いつつ、実のところ、あまり感情が動いていないようにみえました。

発症前の父は、喜怒哀楽がはっきりしていて、おおげさに笑ったり、おどけたり、子どもや動物の動画を観るだけで泣くような、感情表現が豊かな人でした。

でも、泣きたいのに泣けない・・と本人も言うし、実際表情が凍ったように、動かないのです。

そういえば、漢方薬剤師さんは、「泣きたいのに泣けない」ことをキーワードとして、証を選択してくださってました。

それは物語として、わたしにはぴったりとくる選択方法でしたが、やはり時間が足りなかったか、奏功しませんでした。

正月3が日、息子がいるあいだ、年末のような差し迫った切迫感こそありませんでしたが、目に見えてよくなっている感じもしませんでした。

そして、4日の精神科再診。

わたしは、少々の無理をしても結婚式には連れていこうと思っていました。
座っていられるだけの体力さえあれば、車椅子に座らせておけばいいじゃないかと。

希望があるからこそ、父は頑張るのではないかと。

うつ病患者に頑張って…は厳禁です。

どんな本にも書いてあるし、知識としては半ば常識のようにありました。

でも、教科書通りが正しいとは限らない、父にとっては生きがいである孫の結婚式に出席するという希望こそが特効薬になるのではないか。

精神科の先生も、そのあたりの事情や、わたしの気持ちはよく汲んでくださっていたので、できるだけその希望に沿いたいと思って下さっていました。

「お父さん、どうですか?少しは気分がよくなってきましたか?死にたい気持ちはなくなりましたか?」

「いや、死にたいです」

表情をほとんど変えず、父はそう言いました。

ああ、無理か。

これは、父は連れていけない。息子とお嫁ちゃんの晴れ舞台を危険にさらすわけにはいかない。

先生も、薬が効くまでもう一週間あれば・・と残念がってくださりながらも、入院先をすぐに手配してくださいました。

そのまま、精神科単科の病院へ向かい、診察、入院手続き。

父は、おとなしく病室に向かいました。

一度も振り返ることはありませんでした。

わたしも母も、その日まで父は帰ってきて、結婚式まで戦闘態勢でたどりつくストーリーでいましたから、茫然としました。

こうするしかなかったと思いながらも、悔しくて、残念で、父の発症以来、わたしははじめて泣きました。

そして、久しぶりに高熱をだしました。

熱はなかなか下がらず、また新年そうそうの患者さんをキャンセルさせていただきました、

免疫力が下がっているのか、もともと自己免疫疾患体質のわたしは、闘争状態のまま、免疫が暴走していたのか。

結婚式の前日には、さいわい、熱もさがり、空いた父の席にはいとこが来てくれ、なんとか結婚式は滞りなくつつがなく、おひらきとなりました。

直前まで心配をかけた、息子夫婦の晴れやかな披露宴での姿に、本当にホッと胸を撫でおろしました。

東京から帰ってきて、まだ父との面会は叶っておらず、ここからはまた第二章となるのでしょう。

わたしがブログを書く目的のひとつは、ポンコツな私の体験談がどなたかの参考になったり、もっとよい解決策をみつけるためのの叩き台になればという思いです。

このままだと、なんの明るい未来も指し示していないので、きっと明るい着地点がこれからでてくるはずだと私自身が強く祈っています。

後味がわるい文末かもしれませんが、備忘録もかねて、このまま公開させていただきます。


最後まで読んでくださって有難うございます。読んでくださる方がいらっしゃる方がいることが大変励みになります。また時々読みに来ていただけて、なにかのお役に立てることを見つけて頂けたら、これ以上の喜びはありません。