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書くことがこわい?

書きたいことの断片は毎日浮かんでくる。起きがけのシャワー中、午前中のバスのなか、本屋の店番をしているとき、帰りの電車のなか、食事が終わって洗い物をしているとき、微細な合間合間。

シャワー中なら、どうにかして浴室を出るまでに覚えておく。それ以外のときは読書や作業、仕事の手をすぐに止めてスマホを開き、メモしておく。

短いものなら単語数個、長いものなら二段落分くらいの文章。さまざまな切れ端がスマホメモに記されている。

いったん寝かしておき、いつか別の断片とつながって一つの文章になるようなものもあれば、えいやっとやる気を出せばどんどん膨らませていけそうなものもある。

しかし、このえいやっをずっとできていなかった。億劫だからだ。

「億劫」、意味あってるよね…と検索してみると「面倒で気乗りがしないさま」と出てくる。そう、まさに面倒で気乗りがしないからである。

ではどうして気乗りがしないのか。文章を書くことは好きなのに。考えてみて、おそらく自分は怖いのだろうと思った。書きたい内容をうまく整理できるか、伝えたいことをうまく言語化できるか不安なのだ。

新卒から一貫して書く仕事に携わってきたが、振り返ってみると怖いのは毎回だった。取材したこの事柄について、この、とても面白い話と魅力的な人物について、自分がつかんだ手ごたえそのままに書き切ることができるだろうか。

今までは書けてきたが、今度こそどこかでつまづいてしまうのではないか。あるいは、頭の中にはあるイメージに沿った言葉や文脈を探しきれず妥協した文章を書いてしまうのではないか。…

書くのを先延ばしにして、でも必ず締切はやってくるから食らいつき、そうすると結局最後にはどうにか満足のいくものが書けるのだ。今まで、仕事はなんとかそうやってきた。

反面、自分の趣味には締切がない。文学フリマに出すなどの目標があれば少しは違うだろうが、究極的には妥協して出店を見送ったとして誰にも迷惑をかけない。去年、文学フリマに出ることができたのは、すでに手元にあるテキストを編集するだけで良かったからだ。案の定、今年は申し込みもしなかった。

そんな風に書きあぐねている間に、メモはどんどん溜まってくる。書かなきゃ、書きたいのに—。そんな後ろめたさが常にある。それが飽和状態に達したとき(つまり今)、このようにとりあえずだらーっと書き出す、ということを繰り返している。

もちろん、数だけが大切なわけではない。例えば早く多く書くために、どこかから借りてきた言葉を連ねることになったら、書き手も読み手もつまらないだろう。考える時間ももちろん必要だ。それは分かりつつ、でももう少し書くことについて肩の力を抜いてもいいのではないかと最近は思う(それくらいメモが溜まりすぎている)。

固い心構えができて「よし」と挑むのではなくて、まずは軽やかに書き始めてみる。ゆっくりと記憶をたどり、過程を楽しみながら次の言葉を待つ。それは言い換えるなら、自分を信じることでもあるのかもしれない。

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