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信長・利休・秀吉。天下統一の戦略とツールとしてのお茶。

ごきげんよろしゅうございます。
千利休のスケールの大きさに魅せられて、茶道は楽しいなあと心が躍る日々です。
毎日芋づる式に知りたいことが増えて、しかもその実物を見に行くことができるし、自分で体験できてしまうのです。
味わい尽くし満足するまで死ぬわけにはいかない。
正直わたし、死ぬ気がしません(嘘)。

冗談はともかく、日本史有数のミステリー、
「千利休はなぜ切腹させられたのか」
豊臣秀吉と千利休のパワーゲームの背景をもっと知りたくて、文献を探していたら。
こんな本を見つけました。

少しお茶の歴史をおさらいしてみます。
寺院で修行に励む僧侶たちが、修行の疲れを取り意識を覚醒させるための妙薬として用いられたのが、元々の
「喫茶」
の形だったのですが、その後国内でお茶の栽培が広がるにつれて、身分の高い人々の間で趣味のよい飲み物と珍重されたのだそうです。

宮中では複数の茶葉を飲み比べて生産地を当てる
「闘茶」
が発展、室町幕府周辺の文化人が集まるサロンでは、中国から渡ってきた舶来物を愛でつつお茶を嗜むのが好まれました。
もう少し時代が下り安土桃山時代に入ると、富裕層の町衆が中心となって、国産の茶碗を用いる
「わび茶」
が発展しました。

千利休の登場により武将たちの間にわび茶が広まり、江戸時代に入ると大名や大商人がお茶の担い手になったのですが、さらに時代が下ると富裕な町人を中心にお茶をたしなむのが流行。
裾野が広がれば門人をまとめるために制度化が必要になるので、家元制度とお茶を立てるための作法の整備が進み、ここに近代茶道のかたちが完成する、という流れになります。
お茶の担い手の社会的階層が、時代によって上下するのが特徴ですし、その度に茶の湯の位置付けも変化するのですね。

漫画「へうげもの」では、織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康へと支配者が変わり続ける時代の茶の湯、
「数寄」
としてのお茶、所有する名物でお茶をふるまい、趣味の良さを競う世界が描かれています。

名物ほしさに戦を仕掛け、名物を人心掌握のツールとして利用する。
茶碗のために人が死に、茶碗ひとつが城と同じ価値を持つ、ある意味狂気の沙汰だと思うのですが、まさに価値なぞ人の胸一つで決まること。
土をこねて焼いたプロダクトにすぎない茶碗が、高値で取引されるのは、そこに
「心理」
が働いているからに他なりません。
千利休は、美の世界のマエストロとして人の心を支配し、
「わび」
で茶道具の値段をブーストしてバブルを起こしている笑

利休さんが切腹するに至った理由として
「茶碗を高値で売買し、私腹を肥した」
と挙がっているのも、わびの世界の外側からの目線では至極当然の感覚です。
茶碗ひとつの価値が城に匹敵するなんて、狂っている。
そう受け止めるのは健全で、間違っていない。

なのに、間違ってはいないのだけれど、そうとも限らないと思ってしまう体験をして以来、「へうげもの」の数寄者、古田織部の気持ちがちょっとだけわかるのです。

静嘉堂文庫美術館サイトより。

天下の名品、窯変天目茶碗の実物を見た時、

これが窯変天目…
ほ、欲しい!


秘蔵してよそへ出さないつもりなら、奪い取るのも止むを得ない。
と、いう不穏な考えが湧き上がって、茶碗の前から動けなくなってしまうのです。

褒美にこいつを取らせるぞ、城を落とし首を取れと持ちかけられたら、
「はい、よろこんで!
と、即答してしまいそうな魔性がある茶碗でした。

利休さんは天下の茶人として多くの信奉者を得たけれど、それは太閤殿下が与えた地位があっての話。
金ピカの茶室を作ってみたり、大勢でにぎかやに楽しむのを好むマイルドヤンキーな秀吉とは正反対の、漆黒と静寂の世界を追求すれば、あてこする気か?と心中穏やかではないでしょう。

「二心あり」
と疑われたら生きてはいられない時代なのだから、側近として迎合するべきだとしても、わび茶を追求したのは利休の茶人の誇りなのか。
利休も秀吉も、貧しさから才覚でのし上がった似た物同士ゆえに、譲歩は我慢ならなかったのかもしれません。

堺に帰って茶道具屋になるもよし、人脈を活かして大名相手の茶道指南をやっても十分に収入が得られただろうに、切腹を賜るところまで行きついてしまったのは、やはり利休さんの狙いは
「権力」
で、才覚ひとつで天下を取ってみせる野心がある。
しかし、それを成就できるかは太閤殿下の胸ひとつに拠っていて、あやうい駆け引きがあったことでしょう。
天下統一のゴールが見えてくれば、手腕のある人物は疎まれるものです。

わび茶という美の世界は、そう受け止める人の心があってのことで、
「茶碗を高値で売買し、私腹を肥した」
それって、ただの土ですよね?ボクそういうの詐欺だと思うんですよとマジレスを受けてしまうと、なかなか痛いところをつかれたなあという感じがします。

堺の町衆の身分にとどまるか、時の権力者へ忠誠を尽くしてわび茶は捨てるかすれば、首を大徳寺の門にかけられる仕打ちまでは受けなかったかもしれません。
でも、秀吉に頭を下げるのは、死んでも嫌だったのは確かなように思います。


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