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檸檬とメタバース(梶井基次郎『檸檬』を読んで)

 梶井基次郎の『檸檬』で描かれている世界は、メタバースすなわち仮想現実の世界ではないかと思う。
 『えたいの知れない不吉な塊』に押しつぶされて陰鬱な日々を送る主人公は、次第に現実逃避的になり、『以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなく』なってしまう。そんな主人公は、『ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める』
 梶井が生存していた当時は、錯覚を起こすしか手がなかったのであろうが、『私の錯覚と壊れかかった街との二重写し』と表現されているこの錯覚こそ、現代のメタバース、仮想現実の世界ではなかろうかと、私は思う。
 しかし、当時はメタバースなど当然存在しない。そこで、主人公がとった手段は、『想像の絵具を塗りつけてゆく』ことだった。おはじきを舐めて『あのびいどろの味ほど幽かすかな涼しい味があるものか』と感じるのだ。
 仮想現実の世界に浸るにつれて、いままで興味のあった現実の世界を、『重くるしい場所』と感じ始め、主人公には、『書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように』見えるようになった。ついに、仮想が現実の前面に出るようになったのだ。
 そんなある日、主人公は、ひいきにしている果物屋で『檸檬』を見つける。気がかりなのは、この果物屋の描写が妙にリアルなことだ。果物屋には、想像の絵具を塗りつけていないように見える。おまけに『周囲が真暗なため、店頭に点つけられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ』と照明まで工夫してリアルに表現している。ふつう、闇夜にクッキリと浮かび上がるものは仮想・空想の世界ではないか。仮想か現実か、どちらだろう。私には、現実の世界にしか思えなかった。
 では、果物屋にある檸檬はどうか。『レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも』、やはり檸檬に絵具を塗っているのだ。単純な色、紡錘形という幾何学的な形。主人公が買った檸檬は、仮想の檸檬ではないかと私には思えた。
 しかし、しばらく読み進めると、『その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった』、『握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさ』、『鼻を撲うつ』檸檬の香り、そして極めつけは、『――つまりはこの重さなんだな。――』。手に持って重量感があるのだ。こうなると、檸檬は仮想の物ではない。現実の物と思わざるを得ない。
 これは、いったいどういうことか。ヒントはすでにあった。『私の錯覚と壊れかかった街との二重写し』のフレーズだ。主人公は、現実世界と仮想世界を二重写しに見ている。そして、花火に描かれた絵やおはじきなどは、仮想世界の方にピントが合わされ、現実世界が背景に隠れている。しかし、果物屋や重さのある檸檬は、現実世界にピントが合わされて、仮想世界が背景に隠れているのだ。
 現実の世界の中に仮想の物が織り交ざるポケモンGOのようなARの世界。そんな感じだと思う。しかし、ポケモンGOでは、現実の世界に存在しない物が現実の世界に現れるのに対して、主人公に見る錯覚は、現実の物に仮想の物が二重写しにされるのだ。だから、冷感、触感、嗅覚、視覚が現実の物としてあって不思議でない。なおさら、質量は、現実の物として必須のものである。しかし、この現実の檸檬は、仮想の檸檬と二重写しになっているから、時として、『レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色』、『紡錘形の恰好かっこう』に見えるのだ。
 そのような二重写しの世界をさまよって、主人公は、例の『丸善』にたどり着く。かつて『重苦しい場所』と感じた本屋である。ここで主人公は、『本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて』、『その城壁の頂きに恐る恐る檸檬れもんを据えつけた』。すると、『その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた』。ゴチャゴチャと色彩が混乱する本の頂上でカーンと冴えかえった檸檬、色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収した檸檬。ここでの檸檬は、現実ではなく、仮想世界の方にピントが合っている。現実世界の本の山の頂上に、仮想の檸檬が突っ立っている。そんな感じだ。
 現実世界の上に仮想の檸檬を君臨させる。仮想が現実と調和しているだけではない。仮想がゴチャゴチャした現実を『身体の中へ吸収して』統合している。頂上の檸檬は、仮想でもなく現実でもない、これらを統合する存在なのだ。だから、『頂上でカーンと冴えかえっている』。
 これぞまさしく究極の仮想現実ではないか。だから、読者は、黄色い檸檬の弾けるような大爆発を想像できるのだ。
 もしかすると、書店に平積みされた自著を確認した小説家は、『なに喰くわぬ顔をして外へ出て』、『大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう』と思うのかもしれない。
 私も、どこかに檸檬の爆弾を仕掛けてみたい。
(おわり)

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