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心霊写真とユタと

山里 晴香(93年生まれ 那覇市出身)

 心霊写真が撮れた。我が家のソファーで。

 小学校5年生のクリスマス。「おうちでプリクラ」というプリクラを模したチェキのようなおもちゃが欲しくて、サンタさんにねだった。本当は那覇メインプレイスや小禄ジャスコに友達とプリクラを撮りに行きたかったけど、わたしの家は小学生だけでショッピングモールに行くことを禁止されていた。でも、今日から家でプリクラが撮れる。

 「おうちでプリクラ」が届いた日、友人二人が遊びに来てくれた。三人でソファーに並んでプリクラを撮り、付属のシールでデコって、落書きをする。ひとしきり楽しんだので、友人を歩いて家まで見送り、自宅に戻ったら、さっき撮ったプリクラを母親が真剣な眼差しで見ていた。

 「ねえ、これって何かふざけたりしてる?腕が……」

 腕が……、1、2、3、4……7本ある。もう一度、何度数えても7本ある。Mちゃんが降ろした右腕の横に、あるはずのない腕がもう一本生えている。

・・・

「まあ、沖縄なんて激戦地なんだから、映っちゃうことくらいね。」

 母親が誰かと電話で話していた。そうか。めずらしいことじゃないのか。あんなに激しい戦争があったから。

 「わたしたちのときなんて、もっと頻繁にあったよ。最近はめっきり減ったけど。でも、ちょっとびっくりした。家で、こんなにはっきり映っちゃうと。」

 はっきりくっきり、どう見ても不自然なものが映っている。昔はもっとあったのか。心霊写真って時代とともに増減するものなのだろうか。

 少し話が逸れるけど、Mちゃんは、当時、「円盤」から振り落とされて右腕を骨折していた。

 新都心公園ができたばかりのとき、公園に「円盤」と呼ばれる遊具があって、「円盤公園」と呼ばれていた。円盤を模してぶんぶん回る遊具は、遠心力で子供たちをぶん回し絶大な人気を集めた。しかし、威力が大きすぎたのか、多くの子供を振り落として怪我が頻発し、危険だとコンクリートで固められた。Mちゃんは被害者のひとりだった。

 我が家で撮られた心霊写真。
 骨折した右腕に映ったもう一本の腕。
 「おうちでプリクラ」からはなんとなく遠のいていった。

・・・

 数日後、うちにユタが来た。ユタというのは沖縄のシャーマンである。でも、男性だった。一般的にユタは女性なので、この人が本当にユタだったのか、ユタらしき人だったのか正確にはわからない。

 ユタは、母親の友人の知り合いで、心霊写真の話をしたら見てもらった方がいいと母親の友人が家に連れて来た。ユタは我が家を練り歩き、

「2人いますね。」

 と言った。プリクラを撮ったソファーの近くと、畳の部屋の近くにそれぞれ1人いるらしい。

 「どちらも戦争で亡くなった若い兵士です。何十年も昔からいますし、悪さをすることはありません。」

 成仏させられないのかと聞くと、それはできないということだった。成仏するとかではなく、そこに「いる」ものだと。

 同席してくれた母親の友人に悪霊がついていたようで、その霊はお祓いで取り払っていた。ユタは母親が出したゼリーを、スプーンを使わずにズズズズと食べた。

 「大丈夫です。」

 そう言って、ユタは帰って行った。
 残されたゼリーの容器を見て、ああ、わたしの家には霊がいるのかと思った。

 ここに一人とここに一人。
 なんとなく意識するようになった。別に何をするわけでもないが、ソファーに座るとき、畳の部屋を跨ぐとき。ここにいるのだと思う。

 家に二人の霊がいる。あんなに激しい戦争があった場所なら、そういうこともあるのか。わたしの家は築50〜60年くらいの古いアパートで、それもまた歴史なのかもしれない。

 心霊写真が撮れてから20年くらい経つ。実家に帰り、ここにいるよねと言うと、

 「そんなこと覚えてるのあなただけだよ。」

 と母親に言われる。

 彼らはずっと見てきたのだろうか。わたしが朝食を食べたり、宿題をしたり、喧嘩をしたり、不貞腐れたり、本を読んだり、友達と遊んだりしているところを。たまに帰省するところを。

 彼らの歳を追い越して、わたしは大人になった。
 一体どんな気持ちで見てきたのだろうか。そもそも見たかったのだろうか。戦争がなかったら、彼らは我が家に縛りつけられることもなかった。どんな景色を見られたのだろう。もしかしたら、寂しくてプリクラに映ったんだろうか。

 実家のことを思い出すとき、沖縄戦の話をするとき、わたしの家には、戦争で亡くなった兵士が「いる」ことをぼんやりと思う。

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