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スクールバス・メモリーズ

山里 晴香(93年生まれ 那覇市出身)

 スクールバスで学校に通っていたという話をすると、アメリカみたいだね、と驚かれることがある。たしかに珍しいかもしれない。 
 わたしが通っていたのは、昭和薬科という沖縄にある中高一貫の学校で、決してアクセスが良いとは言い難い場所にあった。そこに沖縄全土から生徒が集まるので、スクールバス(通称:スクバ)が登下校時に運行していた。

 首里線・与儀線・安里線・西原線・城間線・新都心線…など、全部で10線くらいあり、沖縄各地から生徒を運んでいた。スクールバスは全国他にも存在していそうだが、ここまで広域なのはちょっと珍しいのではないだろうか。
 いま思うと、なんて有難いサービスだろう。そもそも沖縄には、限られた地区を運行するモノレール以外には鉄道がなく、車が交通手段のメインだ。
 沖縄にいた頃、徒歩とモノレールと親の車以外には交通手段がなかったので、わたしは漠然とした「狭さ」みたいな感覚を抱いていた。そんな中で現れたスクールバスは、新たな移動の手段となり、世界を少し広げてくれたのだった。

スクールバスで見た上級生たちの世界

 スクールバスは、クラスとも部活とも違う空間だった。
 友達とお喋りする人、勉強する人、音楽を聴く人、本を読む人。それぞれがそれぞれの過ごし方をしていた。別に交流はなくとも、同じ学校にこんな人がいるんだと知れる時間が好きだった。
 はじめてスクールバスに乗った日のことが忘れられない。
 新品のリュックに教科書をこれでもかと詰めたら倒れそうなくらい重い。指定された長いスカート丈はめちゃくちゃダサい。何がなんだかわからないままバス停に着いた。
 しかし、周りを見ると上級生はみな大人びていている。何も入ってなさそうな薄い鞄に短いスカート。カーディガンなんかも洒落ていて、自分がなんともイケていないことを思い知らされた。高校生になったらあんな風にイケてる存在になるんだ。その日心に決めた。
 登校にも慣れてきた頃のこと。高校生2人のお喋りが耳に入ってきた。一人が犬を飼い始めて数ヶ月経つけれど、ずっと名前が決まらないと言う。その家族では、ペットに名前を付けては定着せず、みんなが違う名前で呼ぶようになってしまった。だから今回はちゃんとしたいのだと。二人は毎朝犬の名前を考えていた。いつまでも決まらない犬の名前。ついに決まったのか、考えるのに飽きてしまったのか、結末を知ることなく気づけば2人を見かけることはなくなった。

「次、降ります。」と宣言する恥ずかしさ

 スクールバスには、いくつか暗黙のルールが存在した。

  1. バスの前方に女性、後方に男性が座る

  2. 次のバス停で停まってほしいときは「次、降ります。」と運転手さんに聞こえるように叫ぶ

  3. 隣に座る場合は、「隣座っていいですか?」と許可を取ってから座る

  4. 混雑時に着席していたら、近くの立っている人に「持ちますか?」と声をかけて荷物を持ってあげる

  5. 一番後ろの座席は先輩に譲る(基本、イケてる先輩しか座れない)

 わたしが思い出せる限りはこんな感じ。他にもありそうだし、間違って記憶しているものもありそうだけれど。
 「次、降ります。」と大声で宣言するのはなんとも恥ずかしかった。思ったように声を出なくてスルーされてしまったときは、目的地を越して困ることよりも、「あ、スルーされちゃったな。」と車内の人から不憫に思われる恥ずかしさが勝った。

窓から見える他校への憧れ

 スクールバスに揺られながら他校の生徒を見かける度に、よく脳内で繰り広げていた妄想がある。
 1つは、那覇国(那覇国際高校)に通う妄想。那覇国の人を新都心あたりで見かけるのだ。偏見だけど、わたしの中では「那覇国の人たちは明るくて男女の隔たりもなく楽しそう」というイメージがある。もし自分が那覇国に行っていたら、男女でバレーボールとかして、放課後はスタバとか行って、楽しかったに違いない。そんなはずない勝手な妄想を膨らませていた。
 もう1つは、浦高(浦添高校)に通う妄想。浦高の人は、学校の近くの交差点で見かける。制服が可愛くて、特に女性が大人びて見えた。浦高に行っていたら、放課後はアイス屋さんでバイトをし、他校の友達を作ったりして、おしゃれに磨きをかけていたはずだ。きらめく日々をブログに綴りたい。

 わたしの周りだけかもしれないが、昭和薬科の人は、他校への憧れが強かったように思う。「ガリ勉」イメージがあることへのコンプレックスなのか、6年間も同じ学校にいることへの飽きなのか。

 象徴的なエピソードに、「他校のジャージ」があった。他校のジャージを纏って校内を闊歩することがステータスだったのだ。名前が印字してあるので、「他校の友達がいます」とわかりやすくアピールできる。「うちの学校以外の外の世界も知っていますよ」なんてカッコいい。わたしにはジャージをくれるような友達はいなかったので指を咥えて見ていた。

スクールバス・メモリーズ

  沖縄にいた頃、移動手段が限られていることによる「狭さ」を感じていたと書いたが、いまでも帰省するとこの感覚は蘇る。
 上京して、電車でどこにでも行けることに驚きと解放感を感じた。都内なら、目的地へは大抵どこへでも、なんなら県外へも一人で電車で行ける。なのに、帰省した途端にどこにも行けない人になる。わたしは恥ずかしながらペーパードライバーだし、車も持っていないので、親か友人に車で送迎してもらわないと遠くに行けない。どうしても不自由さを感じてしまう。
 でも、いま思うと中高の頃には、外の世界に通じるバスがあったのだ。しかも無料で。
 中学生の頃に憧れた高校生の大人びた様子。勝手に羨ましがっていた他校のスクールライフ。窓の外から見える風景。国道330号線。新都心公園。洋服の青山。ブエノチキン……。スクールバスは外の世界に連れて行ってくれた。そこでしか得られなかった思い出がある。

 たまには目的地を決めず、通学には使わない路線のスクールバスに乗って、知らない文化を体験しに行けばよかった。糸満にしか売ってないハマキョーパンを食べに連れて行ってもらえばよかった。友人の地元のサンエーに遊びに行けばよかった。

 そういえば沖縄には路線バスが走っている。なかなか時間通りに来ないけど、路線バスに乗ったらもっと遠くへ、いろんな場所へ行けるはずだ。今度帰省したら、路線バスに乗って、スクールバスから見えていた景色のその先を、いまからでも見に行ってみよう。

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