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東日本大震災から13年。当時小学6年生だった私の記憶。

こんげー、わたげの本音です。

今回は、13年前に東日本大震災について、
当時の記憶をお話します。

嫌なことを思い出してしまったら、
すぐに閉じてくださいね。


地震発生


2011年3月11日。
東北の某市に住んでいた私は、当時小学6年生でした。

その日は卒業式の総練習の日。

寒い体育館で練習を終えたら、
下級生と一緒にトイレ掃除をしていました。

掃除開始から10分後。
ドン!とまるで雷が落ちたかのような
地響きが鳴り響きました。

それからバキバキ、
ガタガタとものすごい音を立てて
校舎全体が揺れ始めた。

地震だ。それも、大きい。

そう考えた私は、男子トイレを掃除していた
下級生を呼びました。
1年生は怯えた顔をしていたので、
私は手を繋いで「大丈夫だよ」と声をかけます。

ふと視線をあげると、
慌てた4年生が廊下に飛び出そうとしていました。
それを5年生が無理矢理首根っこを掴んで引き寄せると、
目の前に蛍光灯が落ちてきたました。

落ちた蛍光灯は火花を散らすとともに、
ガラス片があたりに飛び散ります。
4年生が悲鳴をあげて腰を抜かし、
それを5年生が支えます。間一髪でした。
もし当たっていたらと思うと、
とても恐ろしいです。

グラグラと揺れ続ける校舎、
廊下の天井から降ってくる蛍光灯。

廊下に出るのは危険だと判断した私は、
下級生とともにトイレで待機していました。

トイレは改装されたばかりで、
丈夫だと思ったからです。

その証拠に、ヒビひとつ入りませんでした。

校舎が揺れる中立ちすくんでいると、
3年生の担当の先生が私たちに気づきました。

辺りの安全を確認した後
「机の下に隠れなさい!」と
声をかけてくれました。

私はすぐ近くにあったベンチの下に、
1年生と一緒に潜りこみました。

顔をあげると、今にも泣きそうな
1年生の顔がありました。

私は自分にも言い聞かせるように
「大丈夫だよ、大丈夫だからね」と
声をかけ続けました。

1年生はコクンとうなずき、
自分の身を守るために
体を縮めました。

震度1くらいに揺れが収まってくると、
私たちは先生の指示でベンチの下から出ました。

私は1年生と手を繋ぎ、
蛍光灯のガラス片が散らばっている廊下を走り、
体育館へ通じる渡り廊下へ。

渡り廊下から外に出ると、
同級生が避難誘導をしていました。

私もハマろうかと思いましたが、
今は1年生が優先だと考え直します。

私は1年生と手を繋いだまま走り出しました。

彼の走るペースなんて考えず、
手を引っ張りながら校庭に向かって走り続けました。

校庭の避難場所には、
すでに何人かの児童と先生が集まっていました。

私は1年生をクラスの列に並べて、
もう一度「大丈夫だからね」と声をかけました。

そして自分は6年生の列に並びました。

数分後には全校児童の避難が完了。
いつもなら、校長先生からお話があるのですが、
その日はありませんでした。

先生が話し合っている中、
何度も襲ってくる地震。

校舎からは、
窓ガラスが割れるのではないかという
バキバキと恐ろしい音が鳴り響いていました。

児童たちから悲鳴があがるたび、
「大丈夫だから」と
根拠のない呼びかけをしていました。

津波警報発令


何度目かの地震がきたとき、
携帯を見ていた校長先生が叫んだ。

「ツナミ警報が発令されました」

私はツナミが何か理解できませんでした。

ただ大変なことになってしまったと、
他人事のように感じていたのです。

今思うと、おそらく目の前の恐怖に
頭が追い付いていなかったのでしょう。

先生たちが話し合っている間に、
数人の保護者が迎えに来ました。

その中に、私の母もいて、とりあえずよかった、と
ほっとしたのを覚えています。

先生たちの話し合いの結果、
保護者に引き渡されることになりました。

津波到達


「コンビニに寄ってから帰りましょう」

そう言って車を走らせる母。

しかしコンビニに通じる道路は、
通行止めになっていました。

仕方なく迂回して進むことに。

しばらくすると、車が渋滞していました。

目の前にある丘には人だかりができており、
みな下を見て唖然としています。

「車で待っていなさい」

そう言って母は車を停め、人だかりに混ざりました。

私は下に何があるのかと気になり、
車の窓を開けてそこから身を乗り出しました。

丘の下には、黒と茶色が混ざった色水がありました。

色水には白い車や家の瓦などが浮かび、
チャプチャプとまるで海のように波打っていたのです。

丘から見えるはずの
保育園や鳥居がありませんでした。

あれは一体なんだろう?

考えている間に、母が青い顔をして
帰ってきました。

私は母に聞いたのです。
「あれはなに?」と。

母は答えました。

「津波だ!津波がここまで来たんだ!
あぁ、きっと街はおしまいだ…」

母はショックを受けたようで、
何度も何度もつぶやき嘆きながら
家に向かって車を走らせました。

家の惨状


家の中は、ひどい惨状でした。

まるで泥棒に荒らされたかのようです。

タンスの中から服が飛び出し、
食器は割れ、壁にはヒビが入っていました。

母は「家の中は危険だから、
片づけるまで車にいなさい」と
指示しました。

私と妹2人は車で待つことに。

「お腹空いた」

1年生の末っ子が呟きました。
その日はそうじの後に給食でした。

しかし地震がきて給食を食べられなかったため、
みなお腹ペコペコだったのです。

6年生には給食がなかったため、
代わりに給食センターからお菓子をもらっていました。

私はその中から妹が好きなお菓子を選び、
与えました。

しばらくして、母が家から出てきました。
ある程度片付けてくれたようです。

私と妹2人は家の中に入り、
こたつに電源を入れようとしました。

着きません。

テレビをつけようとしました。
着きません。

そんな私たちに母は言いました。

「停電しているわよ。
ガスも水道もダメ。どうしましょ」

母は慌てていました。

家の片づけをしているうちに、
外は暗くなっていました。

電気はつかないため、
ろうそく一本が唯一の明かりでした。

父、叔父叔母の無事確認


家にいたのは、祖父母、母、私、
妹2人の6人。

父は海側で土木工事をしていました。
津波が来たということは、父は…。

「お父さんなら大丈夫。大丈夫だから」

母は自分に言い聞かせるように何度も言いました。
それから1時間後。玄関が開く音がしました。

「帰ったぞー」

そう言って父が帰ってきたのです。

車は津波に流されたので、
仕事場から4時間かけて歩いて
帰ってきたようです。

みんなほっとした顔を見せました。
私も安心したのを覚えています。

その日は、カセットコンロでご飯を炊いて
お米だけを食べました。

寝たのは、夜7時。

枕元に外靴を置いて、
いつでも避難できるように準備しました。

なかなか寝付けませんでしたが、
いつの間にか朝になっていました。

震災後の生活


電気も水道もない生活は、
体感で1カ月以上だったと思います。

給水車から水をもらったり、
近所で井戸水を引いている人から
分けてもらったりして暮らしました。

風呂に入れず、まとまった食料もなく、
ラジオからは被害の状況や
亡くなった人、行方不明者の情報が
淡々と流れていました。

そんなある日、市内に住んでいた叔父叔母、
母方の無事が分かりました。

車で会いに来てくれたのです。

再会できた時は泣いて喜びました。

市内の被害状況をみる


市内に住んでいた叔父叔母、
母方の無事がわかったときは
泣いて喜びました。

電気が復旧したころ、
私たち家族は車で市内の被害状況を
見に行きました。

そこには何もありませんでした。

私が知っている街、大好きな街は、
どこにもなかったのです。

あるのは、グニャリと曲がった鉄骨、
屋根の上にかかっている布団、
アパートに突き刺さっている車や木。

道路の両脇に積み重ねられている
瓦礫の山。

どこに何があったのか、
思い出すことができません。

面影がどこにもないのです。

ショックで言葉も涙も出ませんでした。

現実を受け入れられず、
私は悪夢を見ているんだと思い込むことで
心のダメージを守りました。

そのあと、小学校の卒業式がありましたが、
卒業をお祝いする雰囲気ではありません。

家族を亡くした人が壇上に上がり、
後悔と無念を泣きながら話していました。

ワガママで申し訳ないですが、
卒業を祝ってほしかったなと思っていました。

余談ですが、コロナで卒業式ができなかった
学生へ向けてYouTubeで卒業式の動画を見た時。

あの日卒業を祝ってほしかったという
気持ちが浄化されて泣きましたね。

あれから13年経つ今の心境


復興と言えるか分かりませんが、
新しい街ができています。

震災前の面影はありません。

どこに何があったのか、
写真を見ればわかるかもしれませんが。

震災前の写真を見ると、
とても泣きそうになります。

あぁ、あそこには○○があった。
あそこには××があってよく遊びに行っていた。

書いているだけでも涙が出てきそう。

新しい街には空地があり、
まだまだ物寂しい雰囲気があります。

震災前の活気はありません。
みな移住してしまったからです。

現在は街に移住してくる人もいるようですが、
もっと人が増えてほしいなと思っています。

もしも東日本大震災が起こらない
世界線ががあるなら、
どうか今の街を大事にしてほしい。

これからどんな街になるか、
楽しみでもありますし、
どんどん面影が消えていくことが
寂しくもあります。

震災のことは忘れません。
忘れたくても忘れられません。

毎年、発信していこうと思います。

最後までお付き合いいただき
ありがとうございました。

それでは、おつげー。

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