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子供との死別を抱えて生きると言う事

生活のための繁忙期がもう間もなく終わる。

同規模同業者(すなわち1人自宅でカタカタやる業者)に比較してもかなり少ないであろう繁忙期業務のうち、2月末を期限とするものが終わり、その他残りも数件となった。

ヤレヤレと卓上カレンダーに目をやると、来週また3月14日がやってくる。
娘の祥月命日である。(娘が死んだ日、殺された日と言うべきか)

3月になり、世間では、ちらほらと卒業式に関するニュースなども目立ち始めた。
今年、娘は中学校を卒業し、高校生に進学する春を迎えるはずであった。

ある文章を1月末までに書きあげる必要があった。
実に36年もの間、子を亡くした親が集う会を主催していた方から、文集に掲載する簡単な文章をリクエストされていたのだ。(会の中では、希望者はどなたでも自由に文章を書ける。)

色々と忙しいなか、1月末に間に合わず、2月1日の深夜に書き上げたA4用紙で1枚程度の文書を、どうせならと、ここに紹介したいと思う。

『子供との死別を抱えて生きると言う事』

2024年は元日から能登半島地震、翌日には羽田空港での事故と、立て続けに多くの人が突然命を亡くす出来事が続いた。
子を亡くした親にとって、「子が生きていた時間」と「子を失った後の時間」とでは、目の前全ての「色彩」が全く変わる。その変わり様を的確に表現する言葉が見つからない程に変わる。
娘を失った後、突然に人が命を失うニュースが流れる度に、そのニュースの向こうにはその死を境に全く「色彩」が変わってしまったであろう親達がいる事を思わずにはいられなくなった。

今年の正月に放送されていたテレビ番組で、ある女性ジャーナリストが、自らの叔父について語る場面があった。
その番組に特に関心があった訳でもなく、たまたま流れていた程度で見ていたが、その女性の叔父(確か2人)は太平洋戦争で戦死したそうである。そしてその叔父たちの母親、すなわちその女性の祖母は、我が子の戦死を悲しむあまり川に身を投げて自ら命を絶った、そんな話であった。

我が子を突然に失う。自身が突然に命を失う事よりもさらに想定外の事である。
人は想定外の事が起きると、自動的に原状回復を考えるのではないか。原状回復の初動は自分の現在位置を確認することから始まる様に思う。その際の一番の関心事の一つとして、共体験をした人たちの経験談とその後の軌跡が大きな割合を占める様に思う。

これまで戦争や災害等で子との死別を経験した多くの親達がいた事は、考えてみれば当たり前なのに、一方でその経験談やその後の軌跡について質感をもって語られている記録、又はその記録に関する研究は今もってさほど多くは無いのではないかと思う。
なぜそのように思うかと言えば、私自身も娘を失った際に必死で情報を探してみたが殆ど見つけることが出来なかったからである。

共体験をした人の過去、現在、未来を知る事が自分の現在位置を知るための座標軸になる。
自分の現在位置を知ったところで目の前の色彩が変わると言う訳ではない。
しかし、どの様な時代の空気があったとしても、子を失う事の悲しみの深さは、親を狂わせると知る事で、自分が特別に過敏なわけではないと知る事ができる。
子供との死別を抱えて生きる事においては、そうした事実に触れるか触れないかで土俵際の踏ん張りが変わってくる様に思う。
そして、いずれ自分も座標軸を示す側へと回るのだろうとも思う。

来週の3月14日事件発生時刻には、また現場へと行くだろう。
どうして行くのかは、よくわからない。
娘はそこには居ないとわかってはいるが、家で静かにその時を過ごすのも違う気がするのだ。

中学校を卒業するはずの娘に、卒業おめでとうと、声をかけて上げられない。そんなことを思い、誰にも見られないよう、自室で人知れず涙を流す日になるだろう。

私自身、どう残りの人生を過ごしていけば良いのか(消化していけば良いのか)わからずに激しく自暴自棄に陥るということを、際限なく繰り返しているのが実際のところである。


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