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教義と教理とイデオロギー 権威主義的世界観

教義と教理とイデオロギー 権威主義的世界観
現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について                
第二章 宗教とは何か? 啓蒙との本質的な違いについて

 
宗教の定義の一つとして、宗教は教義を持つという理論が存在している。この説においては神を想定していたとしても、教義がなければ宗教ではなく、それは神話とされることになる。

世間一般で言われている多神教というものの大半は、宗教ではなく神話であって、故に多神「教」ではなく、多神「文化」とでも呼ぶ方が本来は適切だ。神道は単なる御伽噺か若しくは国家共同体と日本のあらゆる存在への感謝を素朴に示すだけの儀典であって、教義らしきものは見当たらない。三種の神器とは日本の工業力によって成立する道具であって、これは人間の力の結集の象徴であり、本質的に神道には人間主義が存在していると言えよう。

明治の国家神道であっても本来は宗教過激派を抑圧するための神話でしかなく、機能としてはフランスのライシテと似たようなものであった。明治維新とは、錠前職人でもあったルイ十六世が、最低の女運を持つことが無く死刑を回避出来て、その結果として立憲君主制が採択され、恐怖政治が無くなっただけのフランス革命に過ぎないのだ。

しかしながら、護国神話や尊王思想が過度に喧伝されて、それらが観念的な教義となってしまえば、神道も神話から宗教に形質転換してしまう。国家神道にはそういったイデオロギー的な側面が全く無かったとはいえない。そして、これは現在のフランスのライシテであっても、一定には言えることである。

とはいえ、立憲君主制を守ることや国家の国事行為を尊重することは民主主義的な社会通念であって、過激化しない限りは宗教権威の問題というよりも、国家権力の法制度上のことがらでしかない。そもそも、二次大戦中の天皇主権説は、日本的な神道ではなくアジア的な儒教理論であって、当時の国家神道は神道ではなくて儒教でしかなかった。

これは、江戸時代の将軍教が、天皇教に転化しただけのものであって、戦後はアメリカ教に姿を変えただけの儒教である。現代中華では共産主義に儒教が寄生しているが、仮に日本から神道が無くなったとしても、この寄生虫は新たな宿主を見つけるだけでしかないだろう。戦後の国民主権であったとしても、国民が儒教に毒されているのであれば、民主制権威主義社会にしか成り得ず、それは戦前と同じ破局を繰り返すだけなのである。

奈良時代の天皇達は巨大な大仏を建立して、鎮護国家として仏教を国家の安定に用いようとしていたが、一方で仏教を排撃してまで神道を特別に重んじた節は見受けられなかった。それは、古代の日本人は、教義がない神道を用いて人間の内面を規定・拘束することは難しいと理解していたが故にだろう。

神話と宗教の差異を比較すれば、教義の有無こそが宗教の根底であるように見えるが、実は教義ではなくて教理の有無が神話と宗教を分かつものとされている。宗教の根源的な価値観は教理と呼ばれ、そしてその教理を宗教権威が解釈しなおしたものが教義である。

教義というものは、それを疑ってはならないとされる観念である。教義とは、権威による非実体的かつ非実用的な認識の押し付けであって、それは権威が作った価値観によって世界の解釈を確固たるように確定させることでしかない。教義とは、「上が言っているからその通りだ」という認識そのものだろう。

教義とは、自由な観察と思考を潰し、権威の色眼鏡に懐疑を抱くことを許さないという権威主義である。教義とは、人間が権威と異なる思考を持つことを禁止する拘束であって、思想の自由の弾圧以外の何物でもない。これは、思い込みを子供に押し付ける毒親の所業と同じものであると言えるだろう。
多くの宗教には様々な宗派が存在しているが、教義の差異によって新宗派が成立した場合が多い。それぞれの宗派の信者が信じなければならないと宗教権威に設定されているのは、教理ではなくて教義である。

戒律は教義に基づいて設定されるが、基本的に教義が異なるならば戒律も違う。それ故に、仏教においては妻帯を許可している宗派もあれば、許可していない宗派も存在している。信者達は教義から設定された戒律を守ることによって、教義を生活において実践するというのが宗教のシステムである。
さて、宗教は何故教義を指定するのだろうか? あらゆる宗教は人を導くものとされている。そして、多くの宗教は人間の内面を規定する価値観念、善悪という判断基準を上から押し付けている。

宗教は戒律によって行動を制限するだけではなく、教義によって人間の認識を規定する。つまりは、人間の認識と行動を支配することで、宗教権威は人間を操作・誘導しているというわけだ。実体として確かめようがない観念的な教義を妄信させて疑わせない洗脳が宗教の本質であると言えるが、確たる答えを定めない多神教の殆どには教義がなく、それ故に宗教であるとは言えない。

教義とはその宗教における中核的な世界観であり、「覚えるべき模範解答」と言って問題はない。例えば、キリスト教における教義とは「まず神ありき」であると言って問題はないだろう。とはいえ、カトリックは基本的に政教一致ではないため、この世界観によって社会を構築することを試みているとまでは言えない。

教義とは、暗記の強制であって、そしてこれは権威に対する受動性の強制でもあり、実際に多くの宗教は教義を声に出して唱えることを要求している。「信じる者は救われる」という文言は典型的な教義であって、これは権威が作り出す観念への妄信の強制である。

だが、信じるか信じないかではなくて、実体を視た上で変化を創ることこそが、人間の活動であることは言うまでもない。皆で実体を議論することが民主主義の基本であるが、妄信と拒絶と排除で観察を否認するのが宗教的思考であり、権威の指図に服従することが全体主義である。ガワがどれだけ綺麗に見えようとも、全体主義の実態とは絶対に醜いものでしかない。教義とは、知的好奇心、人間的探究精神を破壊する権威主義に過ぎないのだ。

大体の宗教の教義とは、権威が絶対的な善であり、人間はそれに追従すべき、という理論である。教義とは科学的な仮説とは異なって、実体を確認することもなく、絶対に疑いを挟んではならないとされる観念であって、これは前提情報を正しいとしてそれを疑わず、実体を何も確認しないことを刷り込む洗脳だろう。実体から構築しない論理は、論理として破綻しているのであって、教義とは論理を求めずに、それを否定するだけの偽論理でしかない。

実は、ナチズムにも教義のような世界観は存在している。ゲルマン人の優越という選民思想とヒトラーへの絶対服従の強制という指導者原理は、殆ど宗教教義のような観念である。ナチスはこうした世界観に基づいた世界を構築しようとした時点で、厳密にはこれらの観念は教義というよりもイデオロギーであった。教義は人間の精神にしか踏み込まないとされているが、イデオロギーはそれを突き抜けて社会の規定を行うのだ。

宗教改革を超えて宗教革命を目指したプロテスタントの過激派達も、宗教観念に基づいた社会を作り上げようとした時点で、彼等の世界観は教義というよりもイデオロギーに近いものであった。実際に彼らは革命騒動を連発していたからこそ、ドイツ農民戦争、オランダ独立戦争、清教徒革命が起こり、これらはアメリカ独立戦争とドイツの一八四八年の革命へと繋がっていく。

トランプ前大統領による国会議事堂へのテロリズムも、プロテスタントの宗教革命の延長であったと考えればわかりやすい。現代のEUへのイスラム系の難民は、民主主義よりもイスラム原理主義を信仰し、そして反ユダヤ主義への温床となっているという説があるが、オランダとアメリカは宗教原理主義で人種差別主義の難民達が進行するイデオロギーによって成立した革命国家であるのだ。

バイデン大統領は、真珠湾攻撃と九一一事件とトランプ前大統領による国会議事堂の攻撃を並べていたが、全てがプロテスタント的な人種差別に起因する事件であることは確かだろう。アメリカの民主主義を攻撃している最たるものは、アメリカにおけるドイツ宗教であって、トランプ前大統領はアメリカにおける歴史的暗部の象徴的人物であった。なんであれ、オバマ元大統領が述べた通りにアメリカにはChangeが必要であって、バイデン大統領は新冷戦のために大胆な外交政策を打ち出すだけの努力を行う必要があるだろう。

教義とは観念であるが故に、実体的に確かめられることもない。教義とは実体によって肯定されるものではないが故に、実体によって否定することも出来ない。だからこそ、宗教というものは論破されることもなく人類の歴史に長らく存在してきた。

存在しない恐怖を煽れば、それは実体によって否定できないのだから、論理に対しては一見は無敵に見える。とはいえ、論理を持ち出す側に証明する責任がなく、それに反論する側に証明する責任を要求する教義は、その実において単なる屁理屈でしか無いが故に、宗教者と対話を行うことは単なる時間の無駄なのだ。

そして、この教義という観念は布教によって拡大再生産が起こり、迎合を強制する権威主義の同調圧力によってウィルスのようにとめどなく増殖する。実体性なき観念を殺すことはとにかく困難だが、それが広まる様は止まるところを知らない。

教義とは先入観を植え付ける洗脳であって、人間の認識感覚への侵略に過ぎない。教義とは、権威が人間を奴隷化するに都合がいい妄想であって、人間の精神的防衛力を無力化するためのハッキングに過ぎない。この教義というもの対して疑問を持つならば、宗派別れが起こるか若しくは異端として抹殺される場合が多かったが、現代においても追い出し部屋に放り込むどころか実際に殺人を行っている地域も広く存在している。

キリスト教では教義として原罪を設定しているが、実体的に確認し得ない観念に対して罪を設定する決めつけは、実体性と社会契約を否定して権威に謝罪平伏することを刷り込む難癖だろう。罪悪感の捏造によって観念的な不安を形成させ脅迫し、立場的な困窮者に被害を押し付け、責任を擦り付け、泣き寝入りを強制することは、支配の方便としては最高に都合がいい。事実と関係なく有罪を決めつけて、一方的かつ恣意的に子どもを懲罰することは、毒親なりパワハラ上司なりのいじめの手口としてよく見られるものだ。

魔女狩りというものも、観念的な煽動から生まれてしまった事件であって、観念を理由にして人を殺せるならば、それはあらゆる殺人への許可証となる。教義という観念に対して妄信を強制する権威主義は、罪刑法定主義や思想の自由という近代価値に対して真っ向から衝突している。ヒトラーは、罪刑法定主義を攻撃して全権委任法を造ったが、これこそが世界史における近代的自由に対する攻撃の典型例だと言えよう。「ナチスの党員」は「ベニスの商人」と違って契約価値を理解することが出来ないわけだが、ヒトラーはシャイロックよりも殊更に詰めが甘いものだ。

こうした権威主義的な宗教に対しても「信教の自由」によって寛容さを示すならば、その寛容はいとも簡単に打ち砕かれる。歴史的には宗教権威の嘘よりも科学技術に興味がある人間こそが、悪魔と呼ばれた存在なのだ。観念的な束縛を求めることを、権威主義者達は道徳と呼んでいるが、道徳とはこれを押し付けることによって他者を支配するための観念に過ぎまい。

アメリカの「信教の自由」とは、権威に対する自発的服従を意味する「自由からの逃走」を意味する権利であって、実はこれは「服従することを自明に思うことが優秀であるということだ」というナチズムと同じものなのだ。「信教の自由」という「自由の否定」を持ち出せば、無差別殺人も環境破壊も人種差別も全てを道徳的善として肯定することが可能となる。アメリカやドイツとは異なって、宗教的寛容が存在したプロイセンで「公共的義務」が徹底的に強調されていたのは、本質的にプロイセンが世俗国家であるという証だ。

勤労カルヴィニズムの選民思想は原罪というよりも選民無罪であって、こうした原無罪の教義は原罪よりも遥かに問題がある。アメリカの訴訟においては謝った方が負けるなどといった事例も聞くが、潔癖症で一切の過ちを許さないという勤労カルヴィニズムの不寛容は、己の非を認知出来なくさせる精神病理に過ぎない。己に対する無謬性を妄信する信仰においては、反省することは非選民であって、それは負けでしかないのだ。

そういえば、「寛容は弱さの証」という教義がナチスには存在していた。だが面白いことに、ナチス体制では総統に従順であるならば、弱い将軍でも極めて寛容に扱われていたという歴史の皮肉が存在する。ヒトラーを始めとしたナチスという組織は、その選民思想故に自らの判断の過ちに関してはどこまでも寛容であった。

不正義・不公平の極みであるナチスは、どこまでも自らに甘かったのだから自省など出来るはずもなく、それ故に彼等は究極的なまでに戦争に弱かった。帝国陸軍が一九四四年に中国大陸の大部分を掌握し、一九四五年の八月一五日までシンガポールとジャカルタを占拠していたこととは対照的に、ナチスドイツはモスクワもレニングラードも陥落させることが出来なかった。「寛容は弱さの証」とは、公平さが欠如した組織は弱軍未満の賊徒でしかないという歴史の教訓を示す言葉である。

彼等のような民族主義者達は、何も変えない、何も進歩・向上させないことにだけ究極的な熱意を上げている。自己肯定と権威への追認を教義とする彼等は、結果の創造を目指しているわけではなく、実体的な是非も意思決定もまるで考えることが出来ない。リアリズムを求めないロマン主義とは、承認欲求という自信の無さに裏打ちされた自己顕示欲に過ぎない。見栄張りと保身に狂う弱々しい彼等は、自分の非を認めることが不可能であって他者に責任転嫁することしか行えず、実体公平性を無視することしか出来ないが故に科学技術に基づいた問題解決など行えるわけがない。

斯様な賊徒達とは、必要がない限りは交流してはならないし、どうしても交流する必要が生まれてしまった場合には、情報力と有形力がどこまでも必要となる。実体を観察することもなく、自らが正しいと信じ切っている者は、客観性も自省精神もなくどんなことを平然と行うため、そうした手合いと付き合うには圧倒的なまでの暴力が必要なのだ。ナチスと同盟を組むなどという発想は、国家を破綻に導くだけのものでしかなかろう。

なんにせよ、教義という価値観は上から権威主義によって強制的に押し付ける観念に過ぎず、教義とは権威に騙される義務であると言える。宗教によって先入観が人間に刷り込まれ、思い込みによって「認知への意思」が破綻し、ヴァーチャリズムが蔓延して実体への探究心が失われる。事実実体への認識よりも権威の観念への追認を優先する教義は、誰が言うかを重要とした立場論でしかない。権威とは、その他の者に対して恣意的な優位を求める存在であるため、最初から公平性の打倒を目的とした存在なのだ。

こうした立場論はルネサンス期のイギリス経験論によって徹底的に批判されたが、実体から論理を展開する実験と実証を重んじたイギリス経験論が産業革命を起こした。この歴史を三行で解説することは不可能だが、中世の歴史は「愚か」という二文字で説明をすることも出来なくはない。観念的正当性よりも実効力が意識されることで近代という時代が生まれたのであって、ペーパーテストというものは近代の誕生からは程遠く、スコラ学の延長程度のものだろう。

実体観察と論理性を重んじるイギリス的な知的感性は、アメリカの信仰心やドイツのロマン主義とは完全に異なったものだ。アメリカとドイツは、人間は愚かで堕落した存在であるという教義を権威が唱えるが故に、人間は愚かであることが正しく、むしろ堕落した存在であるべきだと信じ込んでいるのだ。
教義という実体的根拠がない観念論的な印象操作によって人間の精神を支配する手法は、現代のマスメディアの煽動と同じものである。宗教は信者を獲得すること、マスメディアは購買数を増やす個人利益こそがその第一の目的であって、事実の追求及び公益性は営利のための手段でしかなく、目的と手段が合致しない場合は平然と手段を犠牲にする。

そして、権威である彼等には立場論的な無謬が保証されていて、責任がまるで追及されない。その代わりに、無関係の困窮者が濡れ衣を着せられる対象とされ、逆恨みの責任転嫁が繰り返される一方で、問題解決は全く起こらない状況に陥るわけだ。

こうした宗教やマスメディアや煽動政治家による認識の支配は、権威が下の人間の精神へと支配力を投射する上意下達によって成立している。彼等の説く教義の内容も権威が世界の全てであって絶対無謬であるという権威中心主義であるが、権威の自己正当化を権威主義によって押し付けるところに支配の本質的な構造が存在している。この権威へと隷従させる「認識」を、権威主義による押し付けの「戒律」という社会構造によって人間に刷り込むことは、システムとマインドが組み合わさった「二重の権威主義」と呼べるだろう。

世間一般で我慢なり譲歩なりと呼ばれるものの実体は、自己や実体功利性を否定して権威のみを肯定する観念であって、実体的な被害の無視でもある。教義の刷り込みによる我慢と譲歩の強制こそが公共判断を破壊して、権威の支配を成立させている。我慢と譲歩の強制は、交渉の否定であって、他者との話し合いを禁止する恐怖による支配であり、条約交渉も合意形成も禁止するだけの蒙昧でしかない。

だが、実体を無視するペテンの出鱈目であっても我慢強い道徳者達は権威が唱える観念的教義を疑うことは出来ない。権威を妄信し、痛みに耐え続けることが道徳とされるのだから、権威が犯罪者であろうとも、教義を妄信して苦痛に耐えることが重んじられるのだ。

仮に、教義というものが実体に基づいた認識であったとしても、権威主義によって絶対的な認識を押し付けることは、権威を疑うことや実体を自らで確認する「認知への意思」を破壊する。この教義によって人間の認識を規格化するということが、社会の全ての人間にまで拡大されるならば、それはイデオロギーによって社会を規格化することと大差はないだろう。

現代アメリカのフェイクニュースは、「ポスト真実」などと呼ばれるが、これも教義の一種であると言っていい。トランプ前大統領は、不都合な真実を否定する観念的なフェイクニュースを捏造して、選挙の敗北を否定していたが、これは宗教権威による教義の典型的な例であった。自己満足のためだけに生きる彼等は、都合の悪い事実を拒絶したいだけであって、最初から実体を破壊することが目的である。自らの身が安全であるというのであれば、彼等は嘘をつき続けることにまるで何ら抵抗がないのだ。

トランプ前大統領は、自らを権威にすること以外に、人生の目標を何も持っていない。公平性を持たない彼は、事実を捻じ曲げて認知することしか出来ず、被害妄想と実体の区別が分からない。

しかし、好きか嫌いかという価値観は、噓か本当かという実体とは完全に別のものだ。実体を無視して自らに都合がいい観念を妄信することは、ヒトラーも特段に偏愛していた行為であって、ゲルマン民族に強く見られる現象であると言える。この星の上ではどういうわけか、実体を観察することもなく、自らの妄念を他者に強制する独裁者こそが、ゲルマン民族の為政者に選ばれる歴史が繰り返されるのだ。

とはいえ、大部分のアメリカ人は「事実か否か」ではなくて、「権威か否か」という基準しか持っていないが故に、「教義か否か」という思考しか持つことが出来ない。彼等の多くは、神の言うことは絶対に正しい、宗教権威が唱えることは絶対に正しい、実体は不道徳で間違っていて拒絶するべき穢れである、と事実よりも権威を優先して認識することを敬虔として尊重している。

最近になって、彼等が追従すべき先が、宗教権威からトランプ前大統領をはじめとしたマスメディアに変わっただけでしかない。事実に関心を持たない彼等は、問題解決には何ら興味が無く、自己正当化以外を何も望まず、騙されることだけを求め続けているのだ。

実体構造を無視した観念への賛同や望ましい嘘への共感によって集団を形成することが宗教の煽動手段であるが、御涙頂戴はこの手法の典型例である。フェイクニュースという教義は、現実を否定するための「否定のための観念論」であって、これは権威主義に事実よりも受け入れやすい虚構をブレンドした麻薬に過ぎない。認知が狂い、観念的な結論を疑えず、予定調和の思考から外れない状態は、夢遊病の麻薬中毒者でしかないが、「宗教はアヘン」とは、良く言ったものだろう。こうした麻薬は嘘をつく権威の側の実体感覚をも麻痺させて、嘘つきが自らの嘘に騙されるといった状態を作り出す。

このような、実体と他者を否定することにしか興味がない権威との間には、騙し合いと脅し合いの関係が成立することがあったとしても交渉が成立することは起こり得ない。目には目を歯には歯を、暴力には暴力を、嘘には嘘をという認識を持たなければ容易に食い殺される。公共性を持たずに自己愛だけに取り憑かれた者とは、一切において対話しても無駄であるが、こうした者は煽てるだけで最低限には動かすことが出来ることも事実であるのだから、最初から騙すことだけを考えておけばよい。

交渉が出来ない相手と交渉を期待することには、一切の意義が存在していない。ましてや、同情を誘って動かそうとすることにも何ら効果がないことは説明不要だ。平和主義という対話の強制は、ナチスとは講和が成立することが有り得ないという事実を認知していないだけの妄言に過ぎない。

この対話の強制というものも、権威の虚言を妄信することであって、それは権威の洗脳に飲まれるだけの状態を意味していることは言うまでもないだろう。誰とでも友人になるという節操なき野放図な妄想は、ナチスと友人になって他の全てに敵対するという帰結しか起こし得ないのだ。

国家の公共権力によって世俗的かつ公平な政治を成立させるよりも、宗教権威による盲民化と奴隷化による上意下達の社会の方が、安定した社会であるのかも知れないが、その安定した社会は宗教権威が支配する全体主義社会でしかない。全体主義とは、半分が権威の個人利益主義から生まれたものであり、残りの半分は麻薬を求める「兎」「豚」「犬」といった、権威依存症の畜生道が望んだ「実体からの逃避」であるのだろう。

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