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5分でわかるオタクアニメとコンピューターゲームの違い!受動性と能動性 ヘロインとヒロポン

「昔のゲームは良かった」という発言を巷ではよく聞くが、これは老害の妄想であるとは言えない部分がある。

筆者はオタクアニメをほとんど全否定する立場であるが、コンピューターゲーム(以下ゲームと略す)を全否定しようとは思わない。
NASAが訓練に取り入れているものはシミュレーターというゲームであって、ゲームも使い方によって十分すぎるほどに役に立つ。
ドローンの操作などは、ゲームから学ぶものが多いだろう。

昔のゲームは能動的な趣味であった

ゲームというものはなんだかんだで能動的で頭を使う趣味であって、インターネットがなかった時代には、試行錯誤がなければクリアすることが出来ないものであった。
所詮は、ヴァーチャルなものではあるが、頭を使って工夫することというリアルを学ぶことは出来た。
そもそも、読書であっても紙の上の文字というヴァーチャルからリアルを学ぶわけであって、ヴァーチャルなものの全てがリアルに役に立たないというわけではない。
無論、ゲームばかりしていてリアルに関心を持たないことは論外であると先に言っておく。

最近のゲームは能動的な趣味ではない

単に売れればいいという思想が蔓延し、「ユーザーからクレームが付きにくい簡単にクリア出来るもの」や「制作の手間がかからず安価に仕上がるもの」だらけとなった。
今は、表層的な絵が綺麗にするだけで他の部分で手を抜いた方が、売れるし制作コストも下がる。

かつてコンピューターのパワーが低い時代のゲームはゲームの設計に人間の工夫が必要であった。
一方で、コンピューターのパワーが上がった現在では、絵を綺麗にすることには人間の工夫を必要としない。

表紙だけが綺麗で中身が薄っぺらい本でも、よく売れることは事実だ。
そもそも、哲学者や歴史家が数年かけて書いた本は、市場では売れるものは少ない。
市場原理主義が進めば、オタクアニメのように表層だけを取り繕うものが増え続ける。

これはゲームだけではなくて、あらゆる分野に言えることであって、「最後の決闘裁判」という映画を撮ったリドリー・スコットも、アメコミの映画化ばかりとなった現状の映画館を酷評している。
アメリカやドイツの歴史を見る限り、お子様ランチと集団リンチをこよなく愛するのが、白人至上主義者達の性質であるといって何ら問題はなかろう。

ただ愚かで能力も低く何ら公共性はないくせに自らの正当性を絶対に疑わない者は、野蛮人(バーバリアン)そのものであるとしか言いようがない。
バイエルン人のことをバーバリアンと呼ぶが、ナチスの本拠地はバイエルンであって、ベルリンではナチスの支持率は低かったという歴史が存在している。

ノーベル賞の研究の論文を本屋に置いたところで、多くの者はそれに関心を持たないだろう。
もっとも、明治時代においては、多くの国民がそれに興味を持ったが故に、日本は一等国となることが出来たのであって、現状の日本人は一等国の人間に相応しくないということだ。
誰がなんと言おうとも、知的好奇心や文明的敢闘精神を持つ貴族と公共性を持たずに動物的本能だけで生きる野蛮人を同列に扱ってはならない。

オタクアニメとゲームの違いは何か?

ヘロインヒロポン(覚せい剤)の違いである。
ヘロインとは圧倒的に受動的で陰キャ専用のドラッグであり、白人に中毒者が多いものだ。
これは、ドイツのバイエル社が鎮静剤のアヘンの効力を向上させる研究によって生み出したものだ。

一方でヒロポンやコカインは単に打つだけで多幸感が得られるものではないし、歴史的にはこれらは活力剤の一種であった。
乱用こそ推奨されないものの、本来はそれを打つこと自体が目的であるとはされなかったものだ。

何故ヘロインが流行する世の中になったか?

学校が受動的な人間以外を排除するようになったから。
活力を発揮するのではなく、ただ陰鬱で何もせず、権威に迎合するだけの陰キャのアイヒマンのみを量産したから。

イスラエルはスタートアップも多く活力に富んだ国だが、陰鬱なゲルマン民族陽キャのユダヤ人のことが憎くて仕方なかったのだろう。
実際にアインシュタインの人生を見ればわかるが、彼は陽キャそのものである。
収容所の中でも希望を失わずに生きて外に出た陽気なユダヤ人達は、陰キャのバーバリアン達が打ち倒すことなど絶対にできるわけがない。

このまま社会に陰キャを増やし続けることは国益にかなうか?

上級国民の利益と国益は完全に別のものだ。
なお、国家公共を考えずに、搾取体制を安定させることしか考えない上級国民も、陰キャそのものである。
陰キャ増えれば国滅ぶとは言ったものだ。

https://note.com/yrloki/n/n463f2ac22ad8?magazine_key=m5bc3cabf9837

>啓蒙専制君主以前の中世ヨーロッパの国家群は、特権階級が連帯してそれぞれの利権を守る社会状態であって、これは社団国家と呼ばれている。言うまでもなく、この状態は特権階級である「上級国民」ならぬ社団が、民衆を専制的に支配する人治主義社会であった。大部分の社団国家は、国力の増強を考えることもなく、政争のための政争と中抜きによる搾取を繰り返す様であったことは説明不要のことだ。啓蒙専制君主とは、その文字とは裏腹に専制を志向した王ではなく、彼等の政治は、手段としての専制であったとしても、その目的は民主主義に存在していた。つまり、啓蒙専制君主とは民主制権威主義の対極の存在であると言えよう。
啓蒙専制君主達は、集権的な政府を作ることには失敗したが、貴族やギルドなどの特権階級の力を一定に削減して、その代わりに平民にある程度の政治参加を保障するという権力の再配置には成功した。アメリカはともかく、ヨーロッパにおいてはこうして権力に双方向性が発生したため、中央集権化された政府が国民に上命下服を強制する形にはならず、民主主義の基盤が形成されていったわけだ。
近代における国民の誕生とは、ある意味において平民の貴族化であり、平民は徴兵の義務を負うと同時に、表裏一体の参政権を獲得していくという流れに繋がった。近代啓蒙思想というものも、平民に貴族的な思考を体得させるものであって、これは単に無条件で参政権を保障する類のものではなかったわけだ。

参考文献

https://note.com/yrloki/m/m5e659e12bae3
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