見出し画像

縋る者が救われない、信じる者にのみチャンスはあるのか?「エクソシスト -信じる者-」

悪魔憑きは本当に存在するのか?

冒頭からド直球な話になるけど、私は一部のオカルト的な要素は留保しつつも、信仰に対して懐疑的な立場をとっている人間だ。

この世界ではあらゆる信仰の「神」的な存在が多数いて、そのほとんどが敵対者を「悪魔」として設定している。往々にしてその実態は、各信仰の邪魔になる考え方や行動をとる者を「悪魔」あるいは取り憑かれた者として扱う。
そうであれば、私からしたらこの世界は「悪魔」が中心の世界だ。みんながみんな毎朝毎朝電車の中で「オレ以外邪魔くさい、◯ね!」「私だけ安心・快適に乗車させろ」と思ってるんだろうし(今乗車中だったので...)、好き勝手に暴食したいし、エロい色欲に溺れたいし、あれもこれも欲しいし(強欲)、全体主義にはいつも憤怒してるし、休日は怠惰に過ごしたいし、嫉妬心があるからこそ成長出来るし、傲慢さがないと自信はつかない。
ほらね?七つの大罪を全て叶えれば、人間はバッチリとハッピーになれる存在なのだ。私はそれを自制するくらいなら「悪魔サイド」で超いいって感じ。

7つの大罪
ルシファー、サタン、レヴィアタン、ベルフェゴール、マモン、ベルゼブブ、アスモデウス

その昔、精神病に対する医学的見知が多くなかったことから、いわゆる「解離性同一障害」という症状には病気という認識がなかったらしい。そのため著しく感情が乱れたり、自我同一性を一時的に失う多重人格などの事案が起きてしまった際には、「悪魔憑き」という烙印を押されたという説がある。

そうなると教会が腕まくりをして出てきそうなわけなのだが、万が一流行病のように「悪魔憑き」が各地で発症してしまった場合、エクソシズムが需要のある治療方法となるので、教会は供給に応えなくてはならない。
そうなると「悪魔憑き」の流行は教会責任になるし、かといって平社員くらいの神父がじゃんじゃんエクソシズムを行うと、「え?じゃあ、教皇って何?いらなくね?バチカンの存在ってなんなん?」となってしまう。
(詳しくは「ヴァチカンのエクソシスト」評を参照してください)

信仰の大切さと脆さ

物語の主人公は、地震で出産前の妻を亡くし、生き残った娘と二人で仲睦まじく暮らす黒人のヴィクターとアンジェラの父娘家庭と、敬虔なカトリック教徒キャサリンとその家族
それぞれの娘2人が降霊術っぽいことをして行方不明になってしまう。
3日後に戻ってきた2人は、日に日に様子がおかしくなっていく。
あらゆる可能性を調べても一向に回復を見せない2人を救うために、50年前に悪魔祓いを行った女性を訪れる。。。

今回の悪魔憑き
左:アンジェラ 右:キャサリン

本作は1973年「エクソシスト」の続編として、ヒットメーカー・ブラムハウスによって制作された。
とはいえ50年という歳月が経っていて、時代感覚があまりにも違い過ぎるので、立ち位置的にはリメイクにも近い。

この物語の中で、私がサムズアップを送りたい事案の一つが設定だった。

主人公のヴィクターには信仰心がない。
出産前のまじない行為にも怪訝な表情を浮かべていたし、スピって肉食べないって言い出した娘・アンジェラをからかう。
しかし、娘が現代医学ではどうすることもできないような状況に陥って初めて、信仰(この場合、エクソシズムにあたる)に自らの手で救いを求めた。
一方キャサリンとその親たちは毎週日曜日に教会に通い礼拝をおこなって、パンとぶどう酒を飲食し神に感謝してる。
(パンはキリストの肉体、ぶどう酒は血液)
本来であればこの夫妻こそが娘の様子がおかしくなっときに、神や信仰に救いを求めるのではないか?と思ったのだが、実際はそうではなかった。
彼らは「祈り」よりも「怒り」を選択し、自分の中に存在する恐怖と不安との対峙を避けるために、悪魔のうっとりするほど華麗な挑発と罠に嵌り、最も大切にしていた望みを失う。

敬虔な家族だからこそ、
自分の家族から悪魔憑きが出てしまうことを認めたくなかったのかもしれない

今回と50年前のストーリーと大幅に違うことは、2つの家族と2人の悪魔憑きという点だ。
そこにはビジュアル的な説得力もさることながら、信仰の強さと脆さ・意味と無意味・生と死などに連なる相反する要素が見えていたのかもしれない。そして、そこに付け足される「選択」がとてつもないスパイスを醸し出している。

教会への痛快なアタック

やたらと「自己犠牲」だの「隣人愛」だのを列挙する教会に対して、穢らわしい罵詈雑言でニヤニヤと本質を突いてくる悪魔の姿は、私のような捻くれ者にはやたらと美しく思える。

サタンという言葉には、「人間を神の道からそらせようとする」「同胞たちの告発者」という意味がある。これは教会側が、自分たちの考えと敵対するものを擬人化した存在にあたるわけだ。
ではそれを踏まえた上で悪魔側の視点に立つとする。
表面上を清廉潔白に取り繕った教会側の、あらゆるキナ臭い行い(異端審問の歴史や今なお発覚し続ける聖職者による児童への性的虐待行為「スポットライト~世紀のスクープ~」)に対する告発は、真実を明らかにするサタンの側の罪なる行いなのか?

相手の根城でもしっかりケンカ売れる悪魔はカッコええわ・・・

クライマックスのシーンは震えた。

ついに悪魔憑きになったアンジェラとキャサリンに施される、最大の見せ場であるエクソシズム大合戦。
一進一退の攻防の中で、少女2人の肉体が限界を迎える局面になる。
ここで悪魔が、今回のテーマである究極の「選択」を突きつける。
要約すると、「どっちかの命を選んだら悪魔憑きやめてやるよ〜」というイージーなトラップを仕掛けたわけだ。
本来であれば、信仰を信じていない方の主人公ヴィクターが
アンジェラを助けてくれ!
と言いそうなのだが、彼は50年前の主人公であるクリスと邂逅していた。

信仰に対し疑いを持っていたヴィクターが
「エクソシズムってほんまに効くん?」
と聞いた時に、クリスから
意味あるかどうかではなく、そこに自分が信じれるものがあるかどうかよ
という教えを受けていた。
その結果から彼は、悪魔の誘惑を無視することができたのかもしれない。(それどころじゃなくテンパってた可能性もある笑)
要するに、形のないものを信じることで自分自身を信じることのできる強さを持つことが、この戦いにおいては大事だということを分かっていたのかもしれない。

一方、毎週日曜は家族で教会に通う敬虔な信者であるはずのキャサリンの父は、悪魔の「選択」トラップに引っかかり最悪の結末を迎えてしまう。
彼は神を信じることはできたのかもしれないが、神を信じる自分自身の強さを信じれなかったのだろう。

聖書には「信じるものは救われる」という文言がある。
私はこの言葉がめちゃくちゃ嫌いで、Dir en greyの「RED…[em]」という曲の一文に激しく同意するわけなのだが、少し考え方を変えてみた。
「信じるものは救われる」のではなく、目に見えない虚なものを心の底から信じ抜ける強さを持ってる人間はきっと、どんな場面においても強く生きていけるし自分を救えるということなのではないか?

「ダークナイト」との比較と続編としての欠点

そうなのだとすると、悪魔の「選択」への誘惑とその結末にめちゃくちゃ納得がいく。
そして、それを突きつけた悪魔にも賞賛を送りたくなる。
みんな大好き「ダークナイト」の船のシーンを思い返して欲しい。
囚人が乗った船と一般人が乗った船それぞれに爆弾が仕掛けられていて、それぞれの船にお互いの起爆スイッチが設けられているってやつだ。
結果的に、どちらもスイッチを押さずに双方の船は助かったという結末なのだが・・・これがゆるすぎるって話だ。
ジョーカーがやるべきことは、
その起爆装置は相手の爆破スイッチではなく自分たちのものだった...ドッカーーーン!
or
・結果、どっちがどっちを押しても一般の船がドッカーーーン!
だったと今でも思っている。

ジョーカーは素晴らしい悪役だったけど
演出が常に腰が引けていて極悪に見えないのが欠点だった

それを考えると、今回の悪魔さんは50年の歳月も気にせず気さくに話しかけてきてくれるし、「白も黒も関係ねぇ、しっかり呪って殺すんやで!」と仕事を完遂してくれる信頼のできる存在だったし、世界にあらゆる形で存在する信仰というものへ痛烈な皮肉を込めた回答を示したとさえ感じる。

逆に物足りなさもたくさんあった。
悪魔祓い映画はどうしても地味になりがちで、基本的には大団円は祈祷バトルがアクションの代理になるので、基本的には祈っているだけになりがちで地味だし、そもそも50年前の強烈なインパクトと比較されてしまうのは折込んだ上で走り抜ければならなかったはずだが、そこに対しての新しい閃きはないように思えた。

かといって「ヴァチカンのエクソシスト」のようにド派手なバトルモノにしてまうことは容易にできたろうけど、それはそれで「エクソシスト」の正式な続編として、質感が大きくズレたものになってしまう。
悪魔憑きが二人というのは、二人で一つ・どちらかを選択する物語に連なった設定には有効的ではあったものの、悪魔それ自体の魅力としては乏しく、映像的な面でのフレッシュなインパクトを与える描写もなければ、

ほら、そいつを私のアソコに突っ込んでみな!(十字架を持つ神父に対して)
お前の母親は地獄でチ◯コ咥えてるぞコノヤロー!

と言ったウィットに富んだ、楽しくなるような罵詈雑言も少なかった。
総じて考えると、50年前の母娘役の女優を引っ張り出してまで今やる意味はあるのか?と思ってしまう。
そんな非常に位置づけの難しい作品だった。

映画なのに、ビジュアルや言葉でコレ!っていうものがないのは致命的
1973年版はオンパレードなんだよな・・・

分断って何?

ここで私のレビューは終わりだが、どうしても言いがかりをつけたいので記録として残しておく。
X(旧:Twitter)という、肥溜めのような場所に巣食う映画系インフルエンサーが、本作を
この時代に分断を招く最悪な作品」とポストしバズっていた。
そこに群がる「とりあえず低評価作品は叩いてマウントとりたい蠅」は一旦おいておくが、この作品のどこに分断があるのか?

白を殺し黒を生かしたからか?
信仰心の有無を描いたからか?

私は断固その言葉を認めない。
なんなら、それぞれ異なる信仰を用いて
信じることで自分自身を信じることのできる強さを持つこと」を描いた多様性に富んだ話だったじゃないか。
そいつがどう考えているのか甚だ疑問だが、人間は何かを選択しなくては生きていけないし、そもそも違う生き物なのだと思う。
一部分を取り出して、分断だ差別だとのたうち回るのはやめていただきたいし、それがしたいのならネズミ王国に石でも投げてろって話だ。

異教だろうがなんだろうが、それぞれの信じるもので生きようとすることは
分断とは言えないだろう

私は人種差別・レイシストは断固FUCK OFFの姿勢をとっているが、白は白だし黒は黒だ。
そして、どこにでも良い奴も悪い奴もいる。
勝手にお前の頭の中で無理矢理一緒にして、それを剥がれて見えれば分断か?
いい加減にしてもらいたいもんだ。

エクソシスト -信じる者-』(原題:「The Exorcist: Believer」)
監督・脚本 デビッド・ゴードン・グリーン
出演 レスリー・オドム・Jr
リディア・ジュエット
オリヴィア・オニール

エレン・バースティン
リンダ・ブレア


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?