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僕の座右の銘『兵は神速を貴ぶ』って?

どうも。林田です。

久しぶりのnote投稿です。最近はありがたいことに忙しい日々が続いていてとても充実しています。でも、たまには丸一日何も考えずに休みたい。

さて、それはさておき、今回は僕の座右の銘である『兵は神速を貴ぶ』についてご紹介しようと思います。

もしかしたら真・三國無双シリーズをプレイしている方はよく曹操が言うセリフだったので知っている人もいるかもしれませんが、何故この言葉を座右の銘にしているのか、言葉の意味やこの言葉を使った郭嘉という人物に焦点を当てて紹介できればと思います。

最後まで読んでいただけると、僕はとても嬉しいです。
それでは、どうぞ。


『兵は神速を貴ぶ』って?

「戦いは迅速果敢に軍隊を動かすことが何よりも大事である」という意味です。

この言葉を使ったのは、三国志の時代、曹操配下の軍師である郭嘉という人物です。

郭嘉は、曹操が中原の制覇を賭けて、河北の将・袁紹と争っていたあたりの時期に曹操軍の軍師の筆頭(「軍師祭酒」と呼ばれる職位)を務めていた人物です。

郭嘉が「兵は神速を貴ぶ」という言葉を使ったのは、曹操軍が烏桓・袁尚残党連合軍と戦った「白狼山の戦い」の時でした。

陶謙・呂布・袁紹を退けた後、曹操は「烏桓」と呼ばれる異民族の討伐を計画します。
袁紹の息子の袁尚袁煕が烏桓に逃げ落ちたので、袁家を完全に滅ぼす為に遠征部隊を構成し、自ら遠征軍を率いて烏桓が住む遼西と呼ばれる場所へ進軍します。

遼西
中国の地域名。現在の地理では、北朝鮮の北西部と隣接している場所になる。

曹操軍は非常に長い距離を遠征していて、かつ輜重(武器や食事などの軍需品のこと)を多く用意していました。
曹操軍が遼西に差し掛かり拠点を構えたところで、郭嘉は曹操にこう進言します。

郭嘉「兵は神速を貴びます。我が軍は多くの輜重を携え、長い千里の道を移動してきています。ここで足並みをそろえて有利な状況で烏桓どもを攻めるのは困難でしょう。烏桓どもも、我が軍が進軍しているのを聞けば、対策を講じるはずです。ここは輜重は後方に構え、軽騎兵のみで昼夜かけて進軍し、烏桓どもの不意をつきましょう」

曹操はこの郭嘉の進言を採用し、張遼張郃曹純などの有力な武将を従え、烏桓の本拠地へ攻め込みました。

曹純
曹操の従弟。「虎豹騎」と呼ばれる騎兵隊を率いており、烏桓部族長の蹋頓を捕虜にした。白狼山の戦いから3年後に死去。

そして、白狼山という場所で偶然両軍は遭遇し、戦闘状態になりました。
烏桓軍は自分たちが慣れた地での戦いだったこともあって一時的に優勢ではありましたが、ほぼほぼ対策を講じられなかった烏桓・袁尚残党連合軍はすぐに曹操軍に駆逐され、烏桓部族長である蹋頓は戦死、袁尚・袁煕は再び逃げますが、結局逃げた先である遼東の太守・公孫康に斬られ、曹操にその首が届けられました。

遼東
かつて中国に存在した地域名。日本においては、日清戦争勝利後に清から領土を獲得した「遼東半島」として聞き馴染みがあるだろう。
公孫康
後漢時代の遼東太守(長官)。
曹操から攻撃されることを恐れ、曹操から逃れた袁尚・袁煕、ならびに烏桓の残党たちを殺害し、その首を曹操に届けた。
子に、魏に反旗を翻し「燕」という国を建てたが司馬懿に呆気なく滅ぼされた公孫淵がいる。

こうして見事、曹操は郭嘉の「兵は神速を貴ぶ」進言を採用して烏桓・袁家討滅を果たしましたが、その郭嘉は風土病にかかり、白狼山の戦いから1年後に死亡しました。

なお、「兵は神速を貴ぶ」という言葉は、元々は孫子兵法に伝わる『兵は拙速を尊ぶ』という言葉を、郭嘉が引用して使ったとされています。

引用元の「兵は拙速を尊ぶ」は、「作戦を練るのに時間をかけるよりも、少々不備があってもすばやく行動して勝利を得ることが大切である」と言う意味です。

郭嘉は、曹操軍の状況を見極め、曹操も精通している孫子兵法の言葉を用いて進言したあたり、やり手という感じがしますね。

郭嘉の慧眼

この郭嘉という人物は、曹操軍の初期時代に大いに活躍した人物でした。
ことごとく世の情勢や策を見抜き、曹操の躍進を支えます。

元々は、後に曹操と争い滅ぼされることとなる袁紹に仕官するつもりでしたが、彼の人格に失望し、曹操に仕官しています。

この時点で、既に後の時代を司る人物を測る慧眼を光らせています。

更に、その後も「袁術に備えた劉備は、袁術討伐後は殿(曹操)に叛く」「呉の孫策は呉群攻略で多くの恨みを買ったので暗殺される」「袁紹の息子たちは、後継者争いで互いを攻撃するので、その後の変化を待つのが良い」といった発言をし、その全てがその言葉の通りになっています。

袁術
後漢時代の後将軍。大将軍・袁紹の従弟。曹操が帝を保護した後、自らが帝位に就くという暴挙に出て「仲」という国を建てたが、他の群雄たちから敵視されることとなり、最終的に曹操配下の劉備に追討されて病死した。
孫策
初代呉帝・孫権の兄。父・孫堅の死後、主君だった袁術からの独立を果たし、呉郡を瞬く間に手中に収めた。しかし、呉郡攻略時に討伐した許貢という人物の配下に暗殺され、その後は弟・孫権に託された。
三国志演義では「小覇王」の異名を持つ。

また、白狼山の戦いの直前も、郭嘉以外の多くの将が「荊州の劉表が劉備を許都に派遣して攻めてくるのではないか」と危惧していましたが、郭嘉は「劉表が劉備を使いこなすことはできないでしょう。安心して遼西に向かいましょう」と曹操に進言し、郭嘉のいう通り、劉備が攻めてくることはありませんでした。

許都
中国の地名。曹操が保護した帝が住んでいた場所。

しかし、先述した通り、これだけの慧眼を持ちながらも病には勝てず、白狼山の戦いから1年後、37歳という若さで風土病にかかり病死しました。

郭嘉の死は曹操を大いに悲しませ、「郭嘉は我が優秀な配下の中でも飛び抜けて若く、後事は彼に託すつもりだった」とまで言わしめました。

白狼山の戦いから1年後、郭嘉が死んでまもなく開戦された「赤壁の戦い」では、曹操軍は孫権・劉備連合軍に大敗を喫し、撤退。一度は得た荊州の大半を失うこととなります。
この時、曹操は「郭嘉が生きていれば、このような無様な敗北はなかったろうに」と話したと言います。

赤壁の戦い
大軍の曹操軍と寡軍の孫権・劉備連合軍が赤壁という地で争った戦い。
正史と演義で大きく異なる経過となっており、正史では、曹操軍の中で疫病は流行ったことで軍が混乱したところを連合軍に攻められて曹操軍が敗走したという内容で、演義では諸葛亮が鬼道で東南の風を引き起こし、風向きが曹操軍船団に向いたところで孫権軍の黄蓋が火計を実行して船団を焼き払って曹操軍が敗走したという創作が多大に含まれた内容になっている。

曹操にとって郭嘉がいかに重用された人物かが分かるでしょう。

郭嘉の慧眼が赤壁の戦いでも光っていたら、また違った結果になっていたのかもしれませんね。

僕が『兵は神速を貴ぶ』を座右の銘にしている理由

『兵は神速を貴ぶ』。この言葉は、現代においても通ずる言葉だと僕は考えています。

僕は何事もチャレンジが大事だと思っています。

最初から出来ることなんて普通はありません。チャレンジして、成功・失敗、色々学ぶことができて、それを学習して成長していきます。

このチャレンジこそ、「兵は神速を貴ぶ」ものだと考えます。

改めて、「兵は神速を貴ぶ」の意味を記述すると、「戦いは迅速果敢に軍隊を動かすことが何よりも大事である」というものです。

戦いとは、僕の中ではビジネスのことと捉えてます。
軍隊とは、ビジネスしていく上で一緒に仕事をしていくチームのことと捉えています。

つまり、

「ビジネスしていく上で、迅速果敢(=スピーディー)に、チームを動かしていくことが何よりも大事である」

ということです。

まさに、迅速果敢に何事にもチャレンジすることで、とにかく実績を作る。世に評価されることが大事なのです。

最後に

皆さんには、座右の銘はありますか?

実は、座右の銘は「目標」とも捉えることができます。

目標を設定しておくことは人生において大事だと思いますが、もし、具体的な目標が頭に思い浮かべないときは、「座右の銘」を目標にするのも良いかもしれません。

特にクリエイターにとって、目標がないのは絶望的です。多分、クリエイターとして不向きかもしれません。
ですが、色々悩む時期、脳内の考えていることがまとまらない時期というのもあるかもしれません。そういう時に、自分に対して戒めの言葉、かつ目標とする言葉として座右の銘を持っておくのはいいかもしれません。


ということで、今回はここまでです。

noteで書きたいネタはいくつかあるのですが、なかなか書くタイミングが取れず……。
出来るだけ間を空けずに投稿しようと思っていますので、よろしくお願いします!

では、また! じゃねばい!!

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