見出し画像

あの時ヒカリちゃんが帰った理由を私は知りたくなかった。

「気付いたら真っ黒で、真っ黒だって思った途端に真っ白になる」
 私は小学校に入学した頃、団地に住んでいた。団地の中には同じ小学校のお兄さんお姉さんが沢山いた。休みの日にはお兄さんお姉さんたちが学年関係なく遊んでくれて、いろんなお話も聞かせてくれた。これはその中のひとつ。

「人間が死ぬまでに絶対1回は見る夢があるんだって」
 ヒカリちゃんというお姉さんのそんな言葉から始まった。季節は夏だった。ヒカリちゃんはお話が上手で、その日も5年生のヒカリちゃんひとりに対して私たち1年生数人が群がって話を聞いていた。
「パッて世界が真っ白になって、最初は何も見えないんだけど、自分がその白い世界を見てるって考えたら、途端に自分の目で見てる感じがしてくるらしいよ。で、まず下を見ると赤いものがぼんやり見えてきて、じっと見てるとだんだんそれが赤い靴ってハッキリする。そこからどんどん上に視線をずらしていくと、白い靴下、膝、赤いスカートの裾。って、自分の姿が完成するんだって」
 1年生の私には少し難しい内容だった。でも、ヒカリちゃんが優しい言葉を選びながら話してくれたおかげで、なんとなく理解はできた。
「次に、視線を前に向けると、白かった世界が青と緑の半分ずつになって、境目がぼやけてるんだけど、これもじっと見てるとハッキリしてくる。で、同じやり方で左を見ると遠くに丘が見えて、右を見ると大きなリンゴの木が見えてくるんだって」
 ヒカリちゃんの話はだんだんと想像しやすい光景になった。聞いている私たちは前のめりになりながら、これから始まるのであろう何かを待った。
「もう一度自分の目の前を見ると、今度は真っ黒いスーツを着た男の人らしきぼんやりしたものが見えて、それもじっと見てるとハッキリしてくるらしい。黒い革靴、黒いズボン、黒い上着の中に白いシャツと黒いネクタイ。って。で、黒い帽子を深く被ってるから顔は影になって見えないんだって」
 男の人が出てきたところで、私は少しだけ怖くなった。真っ赤なリンゴをたくさん付けた鮮やかな木を想像していたせいもあって、その黒が余計に深く感じた。
「でね、その男の人が話しかけてくるんだけど、喋りはしないんだって。声とか音は全く無くて、頭の中に文字を送り込んでくるらしいよ。テレパシーみたいな感じだって」
 ヒカリちゃんはいつも少し早口だった。その時はいつもより興奮気味で、さらに早口だった。ちょっと言葉に熱や湿気を持っているような、そんな口調だった。
「もしこの夢を見たら、ここからは説明する通りに進んでね」
 そう前置きをして、すでに虜になっていた私達を更にもうひとつグッと引き寄せた。
「まず、男の人が『右手と左脚どっちが良い?』って聞いてくるから、絶対に『左脚』って答えなきゃいけない。その後、男の人が手に持ってるカゴから何かを取り出そうとするから、それを渡されるまではずっと『左脚をください』って唱え続けて。男の人がカゴの中からリンゴをひとつ取り出して渡してきたら、それは必ず左手で受け取ってね。で、受け取ったら、そのリンゴをすぐにひと口食べる。そうすると、脚が動く感覚が出てくるんだって」
 1年生の私でも、さすがにそんな夢が存在するなんてのは作り話だと理解できた。口裂け女やこっくりさんと同じだと思った。でも、それらと同じということは、"ありえない"とも言い切れないものだという気持ちにもなった。私はとても怖くなった。
「脚が動き出したら、すぐに後ろを向いて全力で走って。男の人が追いかけてくるけど、絶対に振り向いちゃダメ。捕まってもダメだからね」
 振り向いたり、捕まったりしたらどうなっちゃうんだろう。と、私や皆が思ったタイミングで、遠くから耳慣れた声が聞こえた。
「今から公園行って遊ぶけど一緒に行くー?」
 いつも遊んでくれているお姉さん達が、集まっている私達を見つけて声をかけてくれた。もちろんいつものように、私達は行くと返事をした。
「私、もうすぐ帰らないといけないから帰るね」
 そう言って、夢の話を途中やめにしてヒカリちゃんはひとりで帰っていった。急いでいたようにも見えたけれど、そもそもいつも歩くのが速かったかもしれない。

 公園でお姉さんたちと遊んでいる時、私はヒカリちゃんから聞いた夢の話をした。聞けなかった夢の最後を教えてもらえるかもしれないと思った。私は当時から話すのが苦手で、ヒカリちゃんのように皆が前のめりになるような話し方はできなかった。それでもなんとか他の子の助けも借りながら伝えた。その夢の最後はどうなるのか、どうすれば良いのか、振り向いたり捕まったりしたらどうなるのか、それを教えてほしいと尋ねた。
「えー。そんな話聞いたことない」
 お姉さんたちはみんなそう言った。ヒカリちゃんと同じ学校でヒカリちゃんと同じ5年生なのに、その夢の話を知らなかった。口裂け女やこっくりさんの話はみんな知っていたのに、その怖い夢の話はヒカリちゃんしか知らなかった。
 その時のお姉さん達のリアクションが、いつもとどこか違う気がした。もしかすると、その話をすることによって何か悪い事が起こるのかもしれない。だから知らないふりをしているのかもしれない。私はそんな風に考えた。

 夢の最後を知らないまま、秋が過ぎて、冬になった。その事をずっと考えていたわけではないけれど、ずっと忘れることもなかった。ヒカリちゃんはあの日以来、その話をしなかった。話さないようにしていたというよりは、まるでそんな話を最初からしていなかったかのように自然に話さなかった。忘れてしまっていたのかもしれない。

 冬休みに入る前、ヒカリちゃんが引っ越しをして、転校もする事を知った。お父さんの実家に帰るらしいと大人が話しているのを聞いた。私がそれを知ってからヒカリちゃんが出発するまでは思いの外すぐで、あまり本人と話ができないままその日になった。
 その団地では、何年か住んだ後マイホームを買って引っ越していく家族が多く、誰かが引っ越すという事は珍しい出来事ではなかった。いつも誰かが引っ越しをする時、交流のあった人たちがその出発を見送るという"お約束"もあった。それなのに、ヒカリちゃんが出発する日の前日になっても、当日になっても、誰もその話をしなかった。平日だったせいもあるのかもしれない。ヒカリちゃんがあれ以来夢の話をしなかったのと同じで、まるでそんなお約束なんて最初から無かったかのようだった。

 出発日、学校から帰ると、階段の下でヒカリちゃんが私を待っていた。
「ユカちゃん、これ。ユカちゃんにだけ書いたから、他の人には内緒ね」
 ヒカリちゃんはそう言って手紙をくれた。私はただ頷いて受け取った。ヒカリちゃんは笑ってバイバイと行って去っていった。寂しさや、名残惜しさは感じられなかった。私はその背中にバイバイと言った。別れの場面で笑っているのは正しいのだろうかとふんわり不思議に思った。

 手紙の内容を全て覚えているわけではない。最初に"たくさん一緒に遊んでくれてありがとう"的なことが書いてあったと思う。"遠くに引っ越しちゃうけど元気でね"的なことも書いてあったと思う。ごく普通の別れの手紙だった。ただ、後半部分は様子が違った。

『ユカちゃんのことはだいすきだけど、ほかのみんなのことは大キライなんだ。みんなムカつくんだよね。だから引っこしするよ。いつも学校でなかまはずれにしてきたり、わるぐち言ってきたり、私のさわったものをさわらないようにしたり、私からにげたり。みんなムカつく。みんな大キライ。死ねばいいのに。みんな私に死ねって言うけど、みんなが死ねばいい。』

 私は約束通り、その手紙を誰にも見せることなく仕舞った。大きなランドセルよりも重い何かを持たされた気がした。
 まだ1年生ではあったけれど、手紙を読んで、ヒカリちゃんがどういう状況だったかということは理解できた。それを表現する言葉は分からなかった。でも、映像として想像はできた。
 だから私は、あの怖い夢の話をしてくれた日にヒカリちゃんが何故先に帰ったのかを理解した。いつもお姉さん達と皆で遊ぶ時、ヒカリちゃんが居なかったわけを理解した。何故お見送りが無かったのかを理解した。バイバイの時に何故笑っていたのかを理解した。
 あれもこれも全部理解できた。それがすごく嫌だった。知らないままでよかった。手紙なんかくれなければ良かったのにと思ってしまった。ヒカリちゃんのことが少し嫌になった。なんで私なんだと思ってしまった。そう思ってしまった自分と、そう思ってしまうのは良くないことだと思う自分が混在していた。その時はそうとは思っていなかったけれど、そうだった。
 だから私は知らないふりをした。ヒカリちゃんの上手なお話が好きだったことも忘れたふりをした。何も考えないようにした。まるで、そんな手紙や気持ちなんて最初から無かったかのように。

 今となってはもうヒカリちゃんの顔をハッキリ思い出せない。ぼんやりと記憶の片隅にはあるものの、それをちゃんと見ようとすると逃げるように不鮮明になる。不鮮明でありながら、それは確実にずっと私の中にある。
 やり残した事のような、後悔している事のような、解けない問題のような、戒めのような姿で、ずっと私の中にある。
 大人になった今でも、結局その時どうすれば良かったのかわからない。わからないと言っている事すら、逃げているのかもしれない。
 私はこの先もずっと答えが出ないまま、ぼやけたヒカリちゃんと一緒に生きていくんだと思う。同時に、手紙なんかくれなければよかった、知らないままでよかったと思ったあの時の自分と一緒に生きていくんだと思う。

 ヒカリちゃんが話してくれたあの夢は、きっとヒカリちゃんの作り話。結末に向かうにつれ不気味になっていくあの夢を、ヒカリちゃんはどんな思いで作ったんだろう。どんな思いで私たちに話したんだろう。
 黒い服の男の人に捕まったら、どうなっていたんだろう。振り向いていたら、どうなっていたんだろう。



この記事が参加している募集

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?