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いづこもおなじ秋の夕暮れ

急に寒い。すごく寒い。

毛布に包まれて秋を感じる。

最近、動画配信サービスで大好きな金八先生を一気見したせいもあって、この和歌がずっと頭の中にある。

さびしさに 宿をたち出でて眺むれば いづこもおなじ秋の夕暮れ

響きだけでもすごく綺麗な歌だなと思う。

あまりにも寂しいので家を出てあたりを眺めてみると、どこも同じように寂しい秋の夕暮れが広がっているばかりでした。

的な意味で、私も当たり前のようにそういう意味だと理解していた。

違いがあるとしたら、

寂しいから外に出てみたけれど、結局どこも同じように寂しい秋の夕暮ればかりじゃないか。

という”寂しさネガティブ”か

寂しくて外に出てみたら、秋の夕暮れの寂しさはどこも同じだから私だけじゃないんだな。

という”寂しさポジティブ”か、どちらかなんだろうなと思っていた。

どっちなんだろうかといろいろと調べてみると、そのどちらでもない解釈をしている解説文を見つけた。


この歌を詠んだ良暹法師という人は、比叡山延暦寺のお坊さんだった人で、このころの比叡山には僧兵さんや僧侶が大勢いる、すごく賑やかな場所だった。

そんな場所でずっと暮らしていた良暹法師は、歳をとって引退した後、延暦寺を出て、人の往来が少なく山に囲まれた静かな山里でひとりひっそりと暮らした。この歌はその頃に詠まれた歌らしい。

賑やかな場所から急に人里離れた静かな場所でひとりで暮らし始めたのだから、それはそれは寂しいはず。

だから、あまりの寂しさに家を出てあたりを眺めてみたというところまでは、他と同じ解釈だった。

その後の”いづこもおなじ秋の夕暮れ”という部分。

秋の夕暮れの情景を思い浮かべてみると・・・

空高くに雲が流れて、その雲が夕陽を浴びて茜色に輝いていたり

山々に目をやれば紅葉や黄色く色づいた樹々が見えたり、鳥や虫の声が聞こえたり

彼岸花や金木犀が咲いていたり

大自然の生命の息吹にあふれかえっている。

つまり

寂しいと思って外に出てみたら、人でわさわさしていた比叡山も、人里離れたこの地も、どこも同じように生命の息吹にあふれてたよ。

と、詠んでいるんだという解釈だった。


なるほどなあ。

本当は違うのかもしれないけれど、すごく素敵な解釈だと思う。

ひとつの和歌にたくさんの解釈があって、その解釈が私に見える情景を広くしてくれる。

もっと違う解釈があるのではと考えようと思うと、もっとその人やその背景を知る必要がある。

きっと和歌だけじゃなくて、誰かやその誰かの言葉、何かやその何かの出来事に対しても、そうであるべきなんだろう。

表面ばかりじゃなくて、もっとちゃんと物事を見ないとな。


でも、とりあえず難しいことは考えず、この歌を見て、聞いて、直感で綺麗な歌だなと思った瞬間も大切にしたいとは思う。


そんなことを考える秋の夕暮れ。



国語/ハンバートハンバート

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