2023忘れられないことー地震と心が震えた言葉
書こう書こうと思っていて、年末のせわしなさに負けて筆を進めずにいたら「まさか」の年始。
自分の「締め切りがないとやらない癖」をこんなに悔いたことはない。
2023年ライブハウスを取り巻く環境は以前の活気を取り戻してきた。
チケットが取りづらくなったり、思いっきり歌う輩のせいで演奏が聞こえなかったり、いやな部分もたくさん戻ってきたが
まぁそれは置いておいて「行った」ということを発言しても咎められなくなったのは、何よりも良かったなと思う。
年間63本。2022年が58本なので別に自身の頻度は大きく変わってなかった。
全盛期が100~120くらいなのでそれでも半減だが、理由は感染症だけではないので回復しづらいところ。
その63本の中でどうしても忘れられない1本がある。
その日のライブは推しが最後の曲のギターソロで盛大に間違えて腹を抱えて笑って終わったが、それまでは非常に良かった!というのは覚えている。
けれども、忘れられないのはライブが始まる前の出来事のほうだ。
忘れられないふたり
ライブハウスというのはオールスタンディングだと「整理番号」というのがチケットに書かれていて、その番号順に入場する。
その日は中盤の番号で、開場時間ギリギリくらいに到着して入場を待つ待機列に並んだ。
その待機列はだいたい番号順に整列するようになっている。
待機列に並んでいると、あるお姉さま方ふたりが「何番ですか?」と聞いてきた。
厳密に1番ごとで並んでおらず周りの方々とそのことを伝えつつ、おふたりもここに並んで大丈夫だということで、一緒に整列することとなった。
とても大らかで気のいいおふたりで入場まで雑談した。
その日は「ロックのほそ道」というスピッツが主催するイベントで、私が足しげく通っている「THE KEBABS」がゲスト3組のうちの1組となっていた。
(THE KEBABSに関しては過去こんなnoteもあるので、そちらをどうぞ)
おふたりはスピッツのファンということだった。
私がTHE KEBABSを見に来たということを知って「しっかり見ておくわ!」などと言ってくれた。超やさしい!!
どこから来たの?
ふたりにどこから来たのか聞かれて「東京」だと答えた。
遠くからわざわざと驚かれたのは、そこが「仙台」だったからだ。
ふたりが「県内だけど距離的にはそんなに変わらないわよ」と話していたので、なんにも考えずにどちらから来たのか尋ねた。
「気仙沼から来たの。知ってる?気仙沼」
私の顔に(マスクしてるけど)「知ってる」って書いてあったのだと思う。
私の反応みたいな反応は今までに嫌というほど経験していたとも思う。
そのくらい「なんて言ったら良いかわからない」顔をしてしまった。
ふたりは私にどこから来たか聞いた時点で、自分たちが来た土地を言うだろうこととその反応はわかっていたと思うんだよね。(今になると)
あのビルだね
その話の後だったと思う。
ふたりがあたりを見まわして「あのビルだね」と話しているのを私はすごく不思議な顔をして聞いていた。
「きょう地震が来たらあのビルに逃げる」
そう私に向かって話してくれた。
それでも私はそれが何を意味しているのか理解するのに時間があった。
あっ!と思った。津波の話だった。
確かライブの3日前には仙台で地震もあった。
ここは港が近いことを教えてもらいつつ、心の中が震えていた。
私は静岡県沼津市の出身で、小さいころから「東海大地震」に備えた「地震教育」をトラウマレベルで受けてきた。
地震教育・防災訓練というのは、何かあったらすぐ動ける「知識と習慣づけ」のことだ。
学校でも地域でも町内会でも、ありとあらゆるコミュニティで訓練が開催され、知識と習慣が「あるほう」だと思っていた。
でも違う。ぜんぜん違う。はるかに違った。
「3日前に地震が起きて海に近いところにいる」
この条件で逃げる場所を暗黙の了解で「あのビルだね」と話すふたりには、格段に実感も習慣も及ばないのだ。
私のそれは単純に知識でしかないのだ。それでもないよりマシだが。
そうやって、心が震えていた。
私の体験談
東日本大震災の話に当然ながらなった。
私から聞くのは憚られたのだが、おふたりから「東京も大変だったのでしょう」と言われた。
いや!ぜったい!気仙沼と比べたら!そんなでもない!!
個人的には店の従業員失踪・過呼吸・男性に襲われたり色々あったが。
まぁぜんぜん比べ物にならんだろ。
当時、私はアミューズメント施設で働いていて、出勤直後のことだった。
実は東日本大震災で私が最も怖かったのは「地震そのもの」ではない。
周りの人たちとの「知識と習慣の絶対差」だった。
施設の広間にて、一次避難で集合した時の恐怖が特にすさまじかった。
一次避難は、次どうするかを決めて行動するまでの「待機」状態なのだ。
待機が長かったこともある。
自分が受けたトラウマレベル訓練の影響もある。
それはわかっているけど、その待機中の周りの従業員の態度は
「次、何かが起きたらこの人たちは全員逃げ遅れる」という状態だった。
防災訓練でめちゃくちゃ言われたひとつには
(校庭での)一次避難で「すぐに動ける態勢」でいることがあった。
くつろいで座ったり、ましてや寝転がっていたりすれば「●年×組死亡」とか発表される。(ちびまる子ちゃんでもそういうシーンがある)
私が見た東日本大震災の一次避難はその基準で言えば「全員死亡」だった。
そして私がそこで感じたのは「誰も助けられない」恐怖だった。
今でもその恐怖はハッキリ覚えている。
しかもその一次避難後、帰宅困難者の待機室から待機になった担当店舗の従業員全員が失踪する。
無連絡でスーパーに行ってたのだが「また地震が起きたら取り返しがつかない」事態を大泣きしながら怒った。
なぜ待機なのか/次何が起きる可能性があるのかという知識がなく、危機感がなく、それを元にした習慣もない…
「有事」だという意識もまったくない行動だった。
でも怒られてる方はなぜ私が怒るのか理解できないくらい「知識と習慣の絶対差」があった。
その差はそのまま「また地震が起きたら誰も助けられない」恐怖だった。
忘れられないこと
気仙沼から来た大らかで明るいお姉さまふたりにその話をした。
「また地震が起きたら誰も助けられない」恐怖の話。
その話を聞いたふたりの言葉が、勢いが、ずっとずっと胸に残ってる。
「生きなさい、何があっても生きなさい」
それまで大らかで明るかったおふたりの表情がピッとひきしまって、ふたりの目のちからがすごかったのも覚えている。
他の全員よりもあなたが大事だ。
逃げられるならあなたひとりでいい。
逃げて生きてればそれでいい。
あなたが、生きなさい。
そういった言葉が次から次へとおふたりからあふれて出てきた。
ひとつひとつの言葉の奥にあるものが、ぜんぶ刺さってきてその場で泣くのを堪えるのに必死だった。
今まで「死ぬな」と散々言われてきたが(それはそれで問題あるけど)
どんな生死を負った言葉より一番重かった。
「何があっても生きなさい」
ほんの数分だったけど2023年の中で一番濃い時間だったと思う。
そしてほんの数分だけど、話せて本当に良かった。
さいごに
これを年末に書こうとして、だらけて放っておいたら昨日大規模な地震と津波が起きてしまった。
今さらだって思った。もう遅いって思ってしまった。
でも、これから別の地域で同じように地震や津波が起きる可能性もある。
東日本大震災の時には私が大泣きしたほど災害に無理解な人ばかりだった。
でも昨日今日はそうではなくなったと報道やSNSを見ながら感じた。
NHKのアナウンサーの叫びを聞いた。
家族が逃げてくれないとひとりで避難した方のツイートを見た。
命が助かっただけでも…と話す方の映像にギュッとなった。
ぜんぶ「それだ」って思った。
この話のような小さなエピソードが重なって変わっていくのだと思った。
あの時のおふたりの言葉をいま何度も何度も思い出している。
「何があっても生きなさい」
どうか皆様ご無事で。
読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。