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ピュアな人の生きづらさをちょっと軽くするには

「ピュアな人」って、少ないですけどいますよね。あーなんかこの人純真なんだな、すごくピュアなんだなと思う人って。もちろん、優しい人が多いです。年齢の割に若く見えるような。

ピュアな人って、生きていれば起こってくる様々な物事に対しての反応がそれこそピュアだから、見ていてなんだか微笑ましいし、たまになんだか真っ直ぐすぎて大丈夫かしらと心配になったりもするけど、基本的には好ましいものだなあと思っています。そういう存在って結構貴重だから、社会をあげて大切に守っていきたい、とさえ思います。

一方で、これはあくまでもピュアな人が「受け手」である場合です。ピュアな人発の様々な言動が、同じように全ての人に対して好ましいものかというと、どうやら少し違ってくるようです。

例えば、こんなことがあったとします。ピュアな人がものすごく気に入ったバスソルトがあって、もうこの香りもテクスチャも大好きで大好きで、こんな一品をみんなに知って欲しくて、自分の好きな人にもぜひ使ってほしいと。

そんな時、ピュアな人はあげちゃいます。「ねえこれ、すごく良いから使ってみて。」なんなら私、もうバスソルト作っちゃいたい!と。

でもね、当たり前のことなのですが、全員が全員バスソルトをもらって嬉しいかというと、そうではないですよね。シャワーで済ませる人もいれば、肌質の問題でバスソルトにはそれを上回るこだわりがあって、「これ以外使えないの」という人もいたりして。人の数だけライフスタイルがあります。

「自分が良いと思うものは、他人にとっても良いものである」とは限らないのです。

これ、分かりやすいようにバスソルトで例えましたが、真面目な話、こういう発想って得てして価値観の押しつけにまで育つ可能性を孕んでいるよなと思っていて、最終的に「え、なんでバスソルト使わないの?(使えばいいのに)」といった具合で暗に人を責める発想に繋がることがあります。

ここで1つ押さえておきたいのですが、あなたもそうだったように、人はその人のタイミングで必要な時に必要なことが起こるようになっていて、その時に自分で問題の本質に気づく力が育ったりもして、それゆえに必ずしもこちらの親切心なりアドバイスなりが結果的に良いことにならない場合があります。

これは「配慮」と「お節介」との違いでもあって、両者の違いはどこにあるかというと、相手に対しての「想像力があるかないか」です。

少し強い言い方になりますが、自分自身の立場を「わきまえないこと」は、あらゆる人間関係においてトラブルに繋がりやすいです。「あなたのためを思って」というフレーズは、少し立ち止まって真意を捉える必要があります。それが純粋な愛からくる思いやりなのか、それともその人の自己を肯定するためのエビデンスとして使われているものなのか。

「自分がそうしたいからそうした」で完結せず、「それによって相手はどう感じるだろうか」まで想像した上でその言動をチョイスするかどうか?という視点を持つだけで、結構人生がスムーズにいくことがあります。仮に同じ言動をとったとしても、その視点があるかどうかで、受け取られ方が僅かながらしかし確実に変わってきます。つまり、ほんの少しの想像力があるだけで、これまで意識していなかったけれども実はなくなってみたらめちゃくちゃ快適だった「生きづらさ」が回避できたりするのです。

と、ここまで書いてきましたが、それこそこの世界は人それぞれなもので、立場をわきまえずにお節介を炸裂する人のことを必要とする人ももちろんいます。何が良い悪いということでもありません。好みの問題といえばそれまでで、幸せは人それぞれです。ただその場合、「なぜそれが必要なのか、本当に必要なのかどうか」を、いつかどこかで静かに見つめる場面がありそうです。


ありがとうございます!