少なくとも

『短編小説』第6回 少なくとも俺はそのとき /全17回

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 思い返せば「一緒に住まない?」なんて言い出したのだって真幸だったし、「私、佐伯君が好きかも」と唐突に言ったのも真幸だった。俺はどこか一歩引いて彼女のことを見ていたように思うし、そうやって自分が傷付くことから逃れていたようにも思う。主導権はいつだって彼女にあった。だから「別れよう」って言えるのだって俺じゃなくて真幸が言うことが正しいのかもしれない。
「佐伯君はさ、今、生きてて楽しいーって感じることある?」
同棲を始めて、二人の関係も大分落ち着いてきていた時に彼女はそう聞いてきた。あまりにも安定した生活だったし、きっとあと少しでも時が経てば、いずれ俺は真幸と結婚するんじゃないかなーっとぼやっと考えていた。それにしたって俺は受け身だったし、真剣に考えることもしない。時期が来れば、真幸が言い出してくれるんじゃないかって甘えてもいた。
「なに、突然」
「ううん、深い意味はないんだけどね。ただなんとなく、最近そういうことなくなったなーって思って。……ほら、なんかまだ学生の時とかってさ、どうでもいいことでずっと笑ってられたりするじゃない?最近はああいうのなくなっちゃったなって」
「ああ、今日も電車乗ってた女子高生がよく分からないお笑い芸人のことを話しててずっと笑ってたな」
「そうそう、そういうの。今考えれば本当に下らないことなんだけどね、その時はそれが何より面白いことなんじゃないかって思っちゃうの」
「まあ、あれだ。大人になったってことなんじゃないの?」
「……大人ねえ」
「考えてもみてごらんよ。どうでもいいことで一々面白がってたら大変だよ、大人は。もっと考えることがいっぱいあるだろうし、たまには必要かもしれないけど、ずっと寄り道してなんかいられない。重要なプレゼンの日にクライアントがちょっと禿げてたりして、それが面白くて笑っちゃうなんて大人の世界ではタブーでしょ」
「またそれは随分極端な例ね」
「……うん、そんなのしか思い浮かばなかった」
「……まあでも、佐伯君の言うとおりかもね。大人になったら、子供の時みたいに時間が無限にあるわけじゃないし、……それになんだか笑える心の余裕もなくなってくるし」
「余裕がないの?今?」
俺がそう聞いても、真幸は何も答えなかった。ただぼんやりと「ふふ」と笑うだけで、状況を濁すようにして、その話は終わってしまった。
 別れた後になってようやく気付いた。俺と真幸が別れる少し前、真幸はやたらとそういうことを言ってきていた。話はいつもうやむやなまま終わりを向けていたけど、あれが真幸なりのSOS信号だったのかもしれないと気付くには随分と遅過ぎた。それにもしその時に気付いていたとしても、俺に何が出来たっていうんだ。きっと気付いたところで俺は「まあ本当に切羽詰まったら直接言ってくるだろう、真幸のことだし」と思い逃げていたに違いないんじゃないか、と思えてならない。俺はいつだってそんな〝面倒な〟状況から逃げていたし、人の気持ちに寄り添える程の甲斐性もない。

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