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長編小説『because』 47

 伝票を捲っては、また捲って。数字の羅列がひたすらに私の目に飛び込んできて、それをひたすらに電卓に打ち込んだ。そんな最中もやっぱり、べったりと張り付いている昨日見た彼の顔が頭の中には確かにいて、いくら数字の羅列を頭の中に入れようと、拭う事ができないままでいる。彼が私の頭の中を占拠している事はどう考えても腹立たしい事で、そんな彼の顔が私の目の前に現れる度に、私はいらついているのに、なぜかどうにも剥がす事ができないのだ。
 終業のベルが鳴り、朝どっさりと置かれていた伝票の束もなんとか片付け終える事ができた。デスクの上はすっきりしているはずなのに、また明日の朝には伝票の束が置かれているのだ。どんなに頑張って逃げても、いつだって結局追いつかれてしまう。私の人生というのは、その心を持たない伝票のためにあるのではないかと思ってしまう程だった。
「じゃーお疲れー」
と言って美崎さんは私の肩を叩いた。「お疲れさまです」と言って美咲さんの後ろ姿を見送っていると、その奇麗な体の線が、中村の手によって抱かれている姿が一瞬見えた気がした。私は頭を横に振り、一瞬にしてその想像を掻き消したけど、彼の顔はやっぱり消す事ができないままだった。
 会社を出ると、秋の匂いをふんだんに含んだ爽やかな風が私の体を揺らした。明日は薄手のコートを着てもいいかもしれない。あのコートはどこにしまったのだろうなんて事を考えながら、ここに来た時と同じ道を逆に辿って家に向かった。帰宅ラッシュで湧く電車に無理矢理乗り込み、ハンドバッグを胸に抱えた。サウナの中に入っているような温度と湿り気で背中を伝う汗に、どうしようもないくらいの嫌悪感を抱きながら、やっと着いたその駅で私は電車から跳ねるように降りた。
 駅の改札を抜けると、なぜだか自分の気持ちが軽い事に気付いた。軽い、という表現がぴったりだと思う。嬉しいとか悲しいとか、もっといろんな感情を混ぜこぜにした結果、私の心に残っているのが”軽い”という表現なのだ。なんで軽いんだろう、なんて考えるのは野暮だって思う。だって自分の気持ちが軽くなっている理由なんて、既に私自身知っている事だったから。その軽かった気持ちがふと急に姿を消してしまったのは、私が自宅マンションのエレベーターを降り、家に向かうまでのその十五メートルを歩いている時で、なんでって、そんなのとても簡単な理由だった。昨日そこにいたはずの彼が今日はいなかったからで、私自身で分かっていた理由なのに、そういった実際の事実と向き合う事で再認識した。

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