少なくとも

『短編小説』第13回 少なくとも俺はそのとき /全17回

「ああ、いえ。なんででしょうかね……」
「私もさ、ここに来る前ちょっと名の知れた会社にいたの。それなりに勉強してさ、就活も頑張ってさ、やっと入れたところだったんだよね。……だけどこうだもん。こんな簡単に辞めちゃう。しかも風俗やってるなんて自分でも笑っちゃう」
「……そうですかねぇ?」
「そうだよ。佐伯さんはもしかしたら私の気持ち分かるかもしれないけどさ、普通に考えたらアホだよね、アホ」
アホ、という彼女のその口調には、言葉とは裏腹にどこか棘のようなものを感じられなかった。
 繁華街を抜けてしまえば、それはどこにでもあるような深夜の姿だった。街灯しか頼りにならず、皆静まり返って眠りに就いている。こんな時間まで働いている自分にどこか笑える。代理店にいた時もそれなりに忙しい日もあったけど、今ではほとんど毎日のようにこの時間まで仕事をしているのだ。難しいことを考えるのは得意ではないが、……人の生き方というのは実にたくさんある。
 中野の周辺まで来た頃、「あ、そこ右」と彼女は声を上げた。それから「佐伯さん、明日朝から?」と聞かれたので、「いいえ、明日は夕方からなんです」と答えた。
「じゃあさ、ちょっとだけ付き合ってもらえない?一杯だけでいいからさ。車を返すのも明日の夕方でいいんでしょ?」
後部座席から、彼女は俺の肩を叩いた。困った、と思った。
「確かに車を返すのは明日の夕方でも大丈夫です。ただ、私は今車に乗っているので、お酒飲めませんよ」
彼女は大きく溜息を吐いた。
「そんなのどうにもなるじゃない。それに大丈夫。私が住んでるマンションに駐車場余ってるから」
「はい?こんなに駐車場の足りてない東京で、余ってるんなんてことあるんですか?」
「あるの。今月いっぱいまでは借りてるの。ちょっと訳アリで」
訳なんてなさそうに聞こえるのは、明るい口調のせいだろうか。
「はあ……」
「だから大丈夫でしょ。安いビジネスホテルもいくつかあるし、なんなら私がホテル代出してもいいからさ。ちょっと付き合ってよ。今日、どうしても飲みたいの、なんだか」
「そういう日ありますよね」
「……ちょっと、はぐらかそうとしてない?」
ああ、どうやら逃れられなそうな気になってきた。こういうことを言い出した時の女ってのは、どうしてこうもしつこいのだろう。
「……分かりましたよ。ホテルじゃなくて、漫画喫茶で仮眠でも取ってから帰ります。一杯だけですよ?」
「おっけー!」
彼女に誘導され、指示されるままに白い枠の中に車を停める。

*********************
その他短編小説はこちら↓
■古びた町の本屋さん
https://furumachi.link

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?