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政治史の書き方,読み方,使い方 vol.2 ――『日本政治史講義』の場合 【下】


◆日本の近代一五〇年を俯瞰して描く

   ――「人」「場所」「制度」の視点の統合

清水 私は,牧原さんが,放送大学で天川晃先生,御厨貴先生と一緒に「日本政治外交史」の講義を担当されていたときに御厨研の助手だったので,天川先生,御厨先生と,いろんな場所に出張に行けて羨ましいなと眺めていました(笑)。ちょうどその頃は,牧原さんが,御厨塾〔御厨先生が主宰していた日本政治史プロフェッショナルセミナーーー編集部注〕で行われていた「原敬日記を読む」に参加されていたときで,毎回それが終わった後の飲み会でされる,撮影のときの裏話がとても面白かったのです。

牧原 ちなみに,たしか,どこかのSNSで,「御厨と牧原が無駄に旅行している放送大学の『日本政治外交史』の講義」と書かれていました。

清水 そういう話もありましたね(笑)。

 こういう言い方をしていいのかどうかわかりませんけど,当時,牧原さんが行政学者からどんどん政治史学者になっていくなという印象を持っていました。最初にお目にかかったときは,ああ,この人は行政学の先生だと思っていたのが,どんどん政治史的な関心を広げられていって,御厨政治史学的な「人」「場所」という視点に加えて,そこに今度は牧原さんが持っている「制度」の見方が合わさってくることに,ある種の凄みを感じました。

 『日本政治史講義』の中でもとくに面白いと思ったのが,ドキュメントの読み方です。これは,牧原さんが以前に東京大学出版会で出された『行政改革と調整のシステム』(2009年)で提示された,改革を駆動させるドクトリンというとらえ方に通じるものだと思います。

 当時,牧原さんの研究会にも参加させてもらっていましたが,牧原さんが,議事録をドキュメンテーションとして,政治的なやり取りの場としてよりも,そこに表れてきている概念をとらえるのが,とても印象的でした。それが,御厨先生のエモーショナルな「人」と「場所」の議論を着地させるのに,とてもうまい効果を発揮していると感じたのが,天川・御厨・牧原『日本政治外交史』(放送大学教育振興会,2007年)を読んだときの印象でした。『日本政治史講義』は,そこがより強く出ていると感じています。

 私たちの『日本政治史』では,それぞれ瀧井さんは明治期が中心で,私は割と大正期中心で,村井さんは昭和期が中心というように,この3人には専門の区分けに加えて時代の棲み分けがあって,それを組み合わせる妙味があります。

 他方,『日本政治史講義』の見方は,文学部的な史学ではなくて,全体をとらえて書かれているところが大きな特徴だと思います。牧原さんがなんだか大歴史家になっていくと私が感じたのは,たぶんそのあたりの組み合わせの妙なんだろうと思います。大きく俯瞰をして議論をしていく。その一方で,制度という足場があるから,バランスがとれる。

 御厨先生には,『明治国家の完成 1890~1905』(中央公論新社,2001年。のち中公文庫,2012年)という著作があります。『日本政治史講義』からは,あの本の作り出したフレームが色濃く感じられます。あの本は,「日本の近代」シリーズの一冊でありながら,キップリングや,慶應義塾大学の「世紀送別会」など,やや毛色の違う話が頻出します。読んでいて映像が浮かんでくるんですよね。

 それが,放送大学の講義によって,実際に映像になった。ですが,印刷教材だけを読んでしまうと,映像があるという前提で書かれているので難しかったんです。ところが,今回の『日本政治史講義』では,そこの部分が対談でフォローされている。先ほども牧原さんが話されていましたが,放送大学だと,普通の大学の学部の授業と違ってディスカッションができない。教員とのディスカッションもなければ,学生同士のディスカッションもありません。そこが放送大学の講義のある種の弱みだと思いますが,対談はそこを上手に補う役割を果たしていますよね。つまり,通常の大学であれば講義の中で行われるディスカッションが,教員同士ではあるけれど,対談のかたちで行われている。そして,それが講義のコンメンタールにもなっているというのが,このつくりの面白さなんだろうなと思います。

 先ほど,村井さんがボストンに行ったときに,そこに来られている官僚の多くの方が日本政治史を知らないとおっしゃっていましたが【『書斎の窓』2021年11月号参照】,放送大学の学生と同様に,ディスカッションをする機会がない通常の読者が読むには,とてもいい工夫がされていると感じました。

◆東日本大震災を経験して

牧原 放送大学は映像教材があるので,学生さんは映像をパッと見て,ピッと終わって,ああ勉強したっていう感じになります。しかも,ご案内の通りで,普通の授業のようにあれをボソボソっとしゃべると,本当に普通に話しているだけになってしまうので,何度か担当するうちに,御厨先生も私も,面白い要素をもっといろいろと入れたいよねという気持ちになっていました。そのうえで教科書は,とは言っても,印刷教材は映像があるから量としては薄くなります。放送大学は非常に縛りがきついので,いろいろなことは書けません。だから,大学の講義で必要な情報を,この印刷教材に求めるのは,まず間違いなく無理です。そのうえでどうするかということで,『日本政治史講義』でも大胆に削ぎ落とし,このような構成になっています。

 あともう一つは,放送大学の教材を準備している途中で東日本大震災が起こりました。2011年に初回のスタジオ収録を始めていました。震災が起こった中で収録をしながら,印刷教材のほうを「書く」というときに,おのずから俯瞰性が出てくるという感じはしていました。あの震災の直後に通史を書くという状況が,かなりこの教科書を後ろから規定しているのではないかと私は思っています。

 さらに,ちょうどこの時期,御厨先生が先端研〔東京大学先端科学技術研究センター〕で研究をされていました。私は,日本政治外交史的なもの,行政学を超えていくものを勉強していた時期でした。と同時に,私自身が東北大学で専門職大学院の設置を担った関係で,実務に深くかかわる教育・研究をしていた時期でもあります。この時期,逆に行政学以外のことをしっかりと研究しようという意欲があったことは確かです。

 例えば,社会史的な面で言うと,私の場合は三宅雪嶺『同時代史』〔三宅雪嶺『同時代史』一~六,岩波書店,一九六七年〕に魅力を感じていました。彼は同時代として生きた「明治」を「昭和」から振り返り,書いていくのですが,彼が昭和から幕末・明治を行ったり来たりするその流れを,オーラル・ヒストリーを通じて過去と現在を行ったり来たりすることと,重ね合わせながら,私自身は資料を読んでいました。それが御厨先生の『明治国家の完成 1890~1905』の思考のスタイルと,いい意味で共鳴したのかなと思っています。

 そういう「ざわめき」と御厨先生ご自身がおっしゃっているような,いろんな意味で情報が過去と未来の間で反響する,その反響を音として楽しむというような部分が,『日本政治史講義』では強いと思います。特に近代史に多いスタイルだと思いますが,過去の歴史的な構造が現代の構造を規定して,こんな悲劇を生んだというようなスタイルとは,素材とその素材への接近方法が,たぶん2人なりに違っていたのだと,先ほどの村井さんのお話を聞いていて思いました。

村井 今の震災の話はすごく興味深くて,震災もそうですしコロナもそうですけど,現代から歴史を遡ってみると,いろいろとあるわけですよね。実は三陸地方の過去の地震や津波がどうだったとか,あとはスペイン風邪がどうだったとかがあります。それが今後,歴史の使われ方としては増えてくると思います。でもだからこそ,過去から現在に流れていく歴史の時代像というものがしっかりピン留めされておく必要があるのかなと,あらためて思っているところです。

 もう一つ,政治史をどう描き,社会の資産としていくかを考えるうえであらためてお話ししておきたいのが,私たちの教科書は外部査読者というか,他の先生方に原稿を読んでもらってコメントをいただいたんです。それがなかなかすごくて,最終的に読んでいただいた方のお名前は「はじめに」のところで挙げていますが,他にもヨーロッパ史の方を入れようかとか,いろんなことを言いながら,この人数に落ち着きました。その中には,政治史の書き方はもっとどうなるだろうかという話や,より事実に即したコメントがあり,3人だけのものにしたままでいいのかなと思うくらい貴重なものでした。

◆日本政治史の将来

瀧井 ちょっと話は別のところに移るかもしれませんが,いろいろな意味で対照的な二つの教科書だったのかなと思います。私のスタンスは,政治家の理念を大きな柱として書いた部分があって,ある意味,政治家論みたいなもので貫かれていると思います。清水さんは制度論をもちろん加味されていると思います。

 そういった観点から見て非常に興味深かったのは,『日本政治史講義』では,先ほどお話に出た「トリックスター」という存在です。先ほど「ざわめき」とか「ノイズ」とかいうお話が出たと思いますが,単に屹立した政治家とかリーダーとかだけでは政治というのは動かない。運動的な部分は捨象したというご説明もありましたけど,しかし運動的な部分をある種演出する,あるいは湧き起こす役回りの,不確定要因と言いますか,もっぱらメディアの人だと思いますが,そういった部分への目配せがトリックスターという存在だと思います。
 今後,さらに新しい世代が政治史を書いていく場合には,田原総一朗とかがトリックスターとして出てくるのかなとも思います。トリックスターという概念が,政治史の書き方の中で,どのように今後生かされていくのか。非常に興味深いものだと思いました。

村井 時間が少なくなってきましたので,あとは,清水さん,牧原さんで残り3分を使っていただく感じですかね。

清水 一つだけ。先ほど大学の講義としての政治史の話が出ていましたが,大正期の初めに吉野作造の西洋政治史が学生たちの注目を集めたことは,現在,政治史を担当する私たちにとって大きな示唆があると思います。

 私たちの『日本政治史』では,1955年までを書くことによって,歴史が現在につながっていることを自明的に見せることを考えていました。他方,牧原さんたちの『日本政治史講義』では,現代まで書かれています。

 大学の講義であったり,一般の人に読んでいただいたその先に私たちは何を出していけるのかが,大きく問われているわけですよね。政治史の講義だから,読み手がそれぞれに考えてくれればいいよねというところの,もう一歩先が必要になっている。たとえば今,牧原さんたちが創発プラットフォームなどを使ってさらなる対談を広げられているような,次のアウトリーチが必要になっていることをあらためて感じました。

牧原 それでは,最後に一言。
 戦前はかなり資料が出ていますので,先ほど清水さんがおっしゃったような,特に海外の研究者の視点が,グローバル・ヒストリーの影響もあって,これからますます強くなってくると思います。そこでまた,海外にある資料との突き合わせで,新しい「日本政治史」が出てくるんだろうと思います。

 戦後については,最近,福田赳夫の評伝が出ました〔五百旗頭真監修『評伝 福田赳夫――戦後日本の繁栄と安定を求めて』岩波書店,2021年〕。あの本で,新しい戦後のイメージが出てきたと私は思っています。まだまだ池田,岸,福田時代は資料が出てきていません。いずれ出てくると思いますが,こういった新しい資料とともに戦後の政治史がつくられていくことは間違いないです。そのときに伝統的なスタイル,近代史のスタイルをどこまで使うのか,あるいはオーラル・ヒストリーとか新しい手法で,どこまで書けるのかというところが試されています。

 そのうえでトリックスターやジェンダー,社会的な要因,今はLGBTとか新しい運動が出ていますから,もちろん社会運動も,どう政治史に跳ね返るのかをやっぱり考えていきたいなと思っています。
                        (2021年8月5日収録)

(これまでの議論は下記の通り。 【上】【中】)



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