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尺取り虫


1.帰郷

   特急列車二号車自由席後部の窓側、硬いシートの中に行儀よく収まってはいるが心地悪く、どうにも気分が落ちつかない。ほどよく車内は振動し、前後左右に脳髄が揺さぶられながら、祥平は窓の向こうにひろがる深い藍に満ちた太平洋をおぼろげに打ち眺めていた。次から次へと後方に吸い込まれて消え失せる手前側の瞬間の木々や瞬間の夏草に視界をときどき邪魔されながら、海は消失したり現れたりを暫く繰り返した。天空は清々しくもなく、かと云ってところどころは完全に曇ってもいない、ただ茫々たる空模様で、そのぼやけた小々波のような雲の下に海鳥が数羽、風に乗って高度を保ちつつ同じ向きに空の鏡を流れている。

   乗客もまた、スピードの上に乗っかっている。スピードは一定的で、ルールと限度がきちんと定められている。それは、いつ何時でも望む場所へ確実に運んで行ってくれるとは限らないものである。窓外に流れる高速、高遠の時空が瞬時に過ぎ去る光景は、フラッシュバックする遥か遠い記憶の断片とよく似ている。つい、自分の半生を振り返り、どうにもならない下火な考えに耽ってしまう。波間にちらつく小さな陽の光はだんだん衰えた。

   そのうちに手前を走る雑草雑木は岩だらけの崖に変わりごつごつし、それからまた数分ほどしてたちまち永遠と続く砂利の浜辺になった。浜辺に打ち寄せる白波が忙しくいくつも立っていて、見渡す限りの大海原は容赦無く恐ろしい様相である。黒い巌がいくつも突き出ていて、磯は波を被って表層の棘を徐々に奪われている。海と、陸。それがぶっつかって生じる摩擦。この世とあの世の境目をはっきりと区切っているかに視えるこの不可思議で壮大な光景。祥平はこの遥かな光景をこれまで何度も視た。そして今、それが更に神々しく異質なものに思えた。

   レールの上をここまで来れば、あと十五分もすれば目的地に到着するはずだろう。

   神戸の町ではいろいろあった。最後の、埠頭にある物流倉庫での仕事は、悔しく、苦々しい閲歴となった。あまり思い出したくもないが、祥平にとってはずっと以前にもう忘れてしまったかのような、もはやそのような夢や幻に似たものになりつつあった。極端なストレスから、祥平は神経衰弱となり、肺が悪くなって、逃げるように神戸をあとにした。同僚に貸した金はついに取り戻せなかった。

   鞄一つの帰途、祥平は過ぎ去った思い出を太平洋の大海原に重ね合わせて眺めていた。深い深い、光も届かぬ深海に苦い記憶を沈めてしまいたくなった。何枚も重ねたフィルムをロープでぐるぐるに束ねて重石を縛りつけ、海に投げ入れたら、焼きついた記憶も海の藻屑とならないだろうか。祥平は倦怠のうちにそれを想像し、ニヤリと微笑んだ。我ながらキザな空想であった。

   その藻屑の記憶と太平洋が夢から冴えて視えなくなり、工場や小さな店、低い家々の屋根や凸凹の田畑を列車が駆け抜けてゆく頃、祥平は聴いていた音楽の再生をストップして、境界線となっていたイヤホンを耳から外した。次で下車する乗客も、回想を中止し、現実の世界に漸と降りてきた。皆が一斉に荷をまとめ出し、少し車内が慌ただしくなった。

   「次は〇〇〇〇、〇〇〇〇です」車掌のアナウンスが騒つくスピードに掻き消されながらも微かに耳に聴こえてきた。祥平は身形を整え、ぶるっと身震いして体温が戻るのを感じると、出口へ伸びた列の後ろにぴったりと同じようにして並んだ。妙な緊張があって、肩が重たいように感じた。

   駅のホームはまるで見違えていた。新しい駅舎の新しい改札口の横には新しいコンビニ。外のタクシー乗り場、そのロータリーのコンクリートも真新しく、僅かな陽を反射して黒光りしている。相変わらず改札を通る前に駅員に切符を手渡すアナログなシステムなのだけれど、例えば駅舎を支える二本の柱や掲示板や道案内図などが新調されたようで真新しかった。

   地元の空は淀んでいてほのかに暗かった。

   宗治郎が軽トラから顔を出した。クラクションを一度鳴らし、祥平は父親と久方振りに眼と眼を合わせた。

   助手席に乗り込むと、父親は「やあおかえり」とだけ云った。

   駅前通りから線路を抜けて、縦に横に折れ、いくつか信号を見送ると、だんだん辺りは田舎らしくなってきた。

   歪にくねる山道になればなるほど、父親はスピードを加速させた。祥平の身体は見えないものに右に左に無理矢理に引っ張られた。窓から風が勢いよく流れ込んだ。

   梅畑が多くなってきた。梅の木々には青々と葉が茂り、たわわに実った梅の実が枝を地面擦れ擦れにまで垂れ落としている。赤く火照り、黄色く色付き、敷かれた網に落ちた大多数の完熟梅は明日の収穫を皆で待っている。

   山々が切り立つ。向かいには雄山。右に谷を挟んで、あれは雌山。その周辺には名もなき小さな山々や丘、それを均した造成地。溜池。地上に隆起した自然活動と人間活動の印を分けて縫うようにして、車線のない細い田舎道が山の奥へとひたすら続いている。ガードレールが途切れ、道は愈々極端な狭さになってきた。父親の車だけがその道の上を熱り立って走っていて、前方からこちらへ降りてくる車とは一台も出会さなかった。民家がところどころの茂みの中にひっそりと点在し、それらのすべては祥平にとってやはり懐かしく、そしてやはりどうしようもなく退屈な風景であった。そして落胆した祥平の心象風景、そのものの姿であった。

   突然の急勾配の坂を登り、鋭角に切り返して最後の坂を登ると、その高台からは遠く彼方の地平線に小さく太平洋が視えた。その高台にある家が祥平の生家である。およそ三年ぶりである。最初に出迎えたのは嗅いだことのある、馴染み深い匂いであった。祥平は、少しの間ここに落ち着きたい、と考えていた。

   何も気力が残っていなかった。飯も食わず、窶れた肉体と精神性は何かを欲することがなく、精力は減退し、生活に使わなければいけないエネルギーと云えるエネルギーが枯渇してしまっていた。

   母親は夕飯を用意してくれていた。しかしそれでもそれは残さず平らげた。

   虫の声がそこら中から聴こえてくる。これほどにも虫の音は五月蝿かっただろうか、祥平は埃っぽいベッドの上でひとり訝しんだ。開け放たれた網戸から夏の風が微かにそよいでテーブルの前のカーテンを妊婦のように膨らませていた。蛍光灯に今にも死んでしまいそうな蛾が張りついて小さな点の影になっていた。

   「あんた、痩せたんじゃない?」

   「そう?さあ少し痩せたかもしらんね」

   それから母親に聞かせた話はこの数年を見事に省略し、美化したものだった。他愛ない会話は、祥平の耳には何も残らなかった。ただそのような飯時にも、得体の知れない黒い影が、塊が、祥平の背後に必ずあった。それは後ろめたいような、憎々しいような、乾いてからからに固まってしまったような、一見すると天井の蛾のようにほんの小さな黒い点に過ぎなかったのだけれども、その黒い点は確かにそこに実在していて、それが祥平にとって一匹だとは限らなかった。

   祥平は食後、直ぐにその場を離れて二階に上がった。二階には自分の荷物を詰めた段ボールが四つ五つ整然と積まれていて、その横に丁寧に布団が畳まれてあった。

   祥平は煤けたカーテンを開け、電気を消し、煙草を吸いながら窓から夜空を視た。月のまわりに星が散りばめられていて暗闇がやけに明るかった。あの吐いてしまいそうな車窓のスピード感をまったく感じなかった。ベッドの上に寝転がった。

   ただ時を刻む、あの単調なリズムがあった。


2.波止場の雨と野良

   祥平は日がな一日中、農作業に明け暮れた。

   兼業梅農家の土地は八反から十反ほどで、さほど大きくはない。専業ならば三丁からが必要になる。宗治郎は平日は役所に勤め、休日の時間を農業に充てている。農薬散布や消毒、剪定、草刈りなど、腕力が必要な作務を主にやる。平日のその間は、祥平の母、和子が農業の中核を担って祖父母とともに収穫をし、選別をし、出荷をする。農繁期になれば平日でも宗治郎は役所から帰るや否や和子らと合流し、出荷作業を手伝う。辺りが闇に浸り、後ろ髪が夜風に吹かれる頃、漸と軽トラに選別後のコンテナを積載して農協の集荷場に向かうわけである。

   早朝、木から地の網に落ちた実をすべて拾い、コンテナに集めて倉庫に運び、だいたい十五時頃から今度は倉庫内での選別や漬け込み、出荷作業をはじめる。そのくらいの時間になると、もう新たに完熟した実が地に落ち、網の上に疎らに溜まり出している。それをまた明日の早朝に方々の畑に拾いに行くのである。

    そうこうして農協の集荷場でその日の伝票を受け取れば、皆で家に帰り、湯を浴び、布団に入る。農繁期は夜通しに近い作業が一ヶ月から一ヶ月半、休みなく続けられる期間である。

   選別方法は、それがどのように加工されるか、また何に使う材料かによって異なる。例えば、完熟して地に落ちた梅は、梅酢と粗塩とにがりにひと月漬け込んで、日光でよく乾かしたあとに秀品、優品、良品、外品、皮切れにそれぞれ細かく選別されて出荷される。これが所謂梅干しであり、そのままの白干しで世に出たり、塩を抜かれ、赤紫蘇や蜂蜜味に二次加工されて全国の食卓に並ぶ。そして、完熟する少し前の、青い球体に赤みが差し、まだ全体が黄色くはなっていないような実は、梅酒の中のまるごとの梅、あのような青梅用として需要があり、完熟を迎えて地の網に落下することなく、人の手によって枝から収穫され、同じく選別、出荷されるのである。またその梅酒の果汁用としては、赤みから黄色く着色し、地に落ちる寸前の梅が使われている。これも時期やタイミングをみて実る枝から収穫され、これに合わせた方法の選別をし、同じく出荷されるのである。

   とにかく祥平は、そのような肉体労働を手伝い、日常に於いては実に平坦な日々を過ごした。

   まだ小さい時分、よく母親について行き、邪魔しないようにそれらの作務を手伝って代わりに見返りの大きいお駄賃をもらったものだ。だから祥平は呑み込みが早い方だった。兼業とは云えど、農業は農業。やはり農家の子は、農家の子である。百足が身を這おうと、蛇に睨まれようと、虻や蚋に顔面を噛まれ膨れようと、それはまったく平気であった。梅の木の剪定のやり方や、選別方法もすぐに覚えた。

   農繁期が終わると、少し自分の時間もできた。夕方五時に仕事を終え、帰って洗濯物を畳み、飯をがっつり喰らえば、そのあと着替えて車に乗り、一人でドライブや夜釣りに出かけた。

   アオリイカ、スズキ、ガシラ、アイナメ、ヒラメ、アジ、イワシ、釣れるものは仕掛けを変えてなんでも釣った。休日にもっと海岸沿いを南に下れば、グレやチヌ、ときにはブリやカツオ、シマアジ、イサギなども釣れた。

   そして雨の日や時化の日は、波止場の自販機の裏に住む野良猫と戯れた。けばけばになった黒い体毛が足や腕や腹にくっついた。孤独感よりも、常に倦怠感があり、その怠さに慣れて感情がいつもぴたっと凪いでいた。その野良をただ野良と呼んだ。野良は祥平がサビキ釣りをしているときに限って近寄って来た。クーラーボックスの中の釣られた小アジを狙いながら、馴れ馴れしく祥平と遊ぶのである。祥平はその野良を気に入り、可愛がった。凪いだ感情に少しの高揚を与えられたのである。

   ある霧のような雨の夜、車を漁港に駐めて、祥平は自販機の灯りの中で野良を膝の上に乗せて買いたてのジュースを呑んでいた。すると、一台の綺麗な車が漁港にゆっくり入って来て、そのまま祥平と野良のいる奥の波止場の漁船の前まで来て、海を前にして停車したのである。夜中の十一時頃である。祥平は、漁船の船長くらいのものだろうと思い、気にも留めなかったのだが、間もなくして再びエンジンがかかり、車がバックに動き出したのである。何か用事を済ませ、その場を去るのだろうと祥平は見て取ったが、ターンして目の前を過ぎようとする車のライトが祥平たちに覆い被さったとき、車がそこで突然止まったのだ。祥平は眼を眩しさにやられながら右手でハイビームを覆い隠し、細くなった片方の眼で車の挙動を注視した。

   するとどうだろう。車の窓がスライドして、中から誰かが顔を出し、祥平の名前を呼んだのだ。

   「祥平さん?祥平さんすよね?」

   「えっ、誰?」

   「俺です。商業の一年後輩の、堤っす」

   「堤、、、ああ堤か、やあやあ久しぶり。こんなとこで何してんの」

   「いやほら、彼女とドライブに」

   「ああそうなん。車のライトで全然見えんかったわ。来たばっかやのにもう帰るん?」

   「はい。なんか来たんはいいんですけど、やっぱここ何もなくて」

   「そりゃそうやね」

   「というか何してんすか?そんなとこで」

   「いや釣りに来たんやけど雨が降ってきたからさ、雨が小降りになるまで雨宿りしてたら、ほら、汚い野良猫が俺に寄って来たわけよ、だからちょっと相手してあげとるわけ」

   「ああそうなんすね、ははは」

   「まあ彼女と仲良く。皆んなにもよろしく言っといてな」

   「はい。では」

   「あんま夜更かしすなよ」

   「はあい」そう云うと堤は窓を閉め、ぶうんとエンジンを吹かして漁港から走り去って行った。

   祥平は恥ずかしかった。一つは、こんなところをよりにもよって高校の後輩に視られてしまったこと。狭い田舎町のことだから、すぐに噂話はひろがって縁遠い同級生らの耳にも届くのだろう。それに、自分は一人でこんな侘しい漁港で野良猫と言葉もないままぽつねんとしていたのに比して、奴は彼女とこれからラブホテルにでも向かう道中である。今頃車内では彼女が、ねえ、あの人なんか変じゃない?とか、雨が降ってんのに一人であんなとこいるなんて絶対普通じゃないよね!とかなんとかを云っているのだろう。それに応える堤も、屹と同調、共感するに違いない。モテたい男とはいつだって女性に同調、共感するものだから。

   そしてもう一つは、膝の上の野良に対して、恥ずかしかった。今宵、祥平は釣竿もクーラーボックスも持って来てはいなかったのだ。ただこうして野良の猫様に会いに、ここへやって来たのだ。しかるに祥平は、野良の前であんな辛辣なことを云った。

   「ごめんやで」祥平はそう云って悲しくなった。

   夜の虚空からは相変わらずさっきと代わり映えしない雨が降っていた。得体の知れぬ黒い影が自販機の隙間から覗いたり隠れたりしていた。漁船のガラス戸にも、電柱の下にも、縄や、空き缶や、石や、終いには野良の下腹部に描かれた儚い影でさえ、ゆらゆらと不気味に揺れ動き出した。黒い点がそこら中にあった。泪のような感覚は忽ちに雨に混ざって足下の水溜りとなって地面で冷たくなった。けれども、祥平はすぐに気を取り戻した。野良を膝の上に戻し、もう一度尊い時間にその身を浸透させていった。雨はなかなか静かにならなかった。自販機は終始ぶううんと鳴って熱を帯びた光を放っていた。


3.尺取り虫

   数年越しに封を開けると、それは昔の写真たちであった。祥平はそれを視るなり乱暴にまた箱の中に押し込めた。そしてケースからギターを取り出し、磨いて、新しく弦を張り替えた。祥平の部屋は、祥平が家を出ると弟の部屋になり、それから空き部屋になり、物置きになり、また祥平の部屋になった。祥平は窓を開けて埃っぽい陽射しを浴びた。荷物はまだほとんどがダンボールに仕舞いっぱなしになっていて、その上を埃の群れが舞っていた。その中にあるものはどれもガラクタだった。

   一階から祖父の呼ぶ声がした。もう昼寝の時間は終わり、またぞろ畑に出かける時間である。祥平は大きな声で「おお」と返事をし、コップの底に残っていたブラックコーヒーをぐいと一飲みして、部屋を出た。

   祖父はもう九十近いのに現役の農夫であった。車の運転はこの頃かなり危うくなったので、できるだけ祥平が運転して祖父を助手席に座らせるように心掛けていた。気をつけておかないと、目を離すと祖父はすぐに無茶をする。先日も、スーパーカブで坂を降ろうとして急カーブで誤って転んで大怪我をしたのである。老人は、なかなか自分を老人だとは認めたがらない。まだ自分はやれる。まだ自分は大丈夫。そう考えてしまうのである。

   畑に着くと、祖父を倉庫に降ろして別れて、祥平は山奥の倉庫から更に深い山の道をトラックで登り、木々の密集した翳りをくぐり抜けると、そこで車を降りて扉を閉め、荷台の三つ鍬を担ぎ、見晴らしの凄いところにある段々畑の斜面に立った。その斜面は他と比べてやけに険しく、高さがあった。父親が草刈りをするときに、その箇所がいつも危なっかしかった。そこで、もっと草刈りがやりやすいように、安全に行なえるように、その斜面の中心から横を半分に裂くようにして、新たな小径を三つ鍬で以って形成しようとしているのである。

   小径を掘りはじめて、今日で四日目である。今日こそはあの先端まで進んで、この作業を終わらせよう。祥平はその意気込みであった。

   背に山間からの強烈な陽が照りつけ、早くも身体はぬめぬめのぐずぐずになった。額には頭上からの汗が滴り落ちてきて目や鼻の穴に溜まってきた。タオルでそれを拭い払いながら、祥平は夢中になって鍬を斜面に入れ、土を掘り、草の根を切り、それを均した。クソ。クソ。クソ。クソ。

   少しずつ、少しずつ、前に進んでいる。

   眼下、谷に眼を向けると祖父を降ろした倉庫が視える。その倉庫のまわりにある畑の隅に、蟻のように小さな祖父が胡座をかいて草をむしっている。尻を擦りながら草をむしり、少しずつ前に進んでいる。小さいが、その一つ一つの動作がはっきりと判った。今、祥平が大声で、じいいさああん、と呼べば、屹と祖父はこちらを見上げて手をゆっくり振ることだろう。

   都会の人間はあんなにもごみごみと密集しているのに、誰もが寂しそうに歩いていた。横断歩道で信号を待つ人の波は、電車に溢れる人の波は、皆一様に携帯ばかりを覗いて、遠くの景色を視ようとはしなかった。それは近くにも、遠くにも、何もないからである。ビルの隙間にある空に微かな月がぼやけていて、ただその隙間に、故郷、恋人、親への想いを馳せるのである。

   ここはなんて気持ちがいいのか。なんて清々しいのだろうか。草や花の匂いがする。土の匂いが鼻につんと来る。陽射しはきつく、どうにも熱が内に内に籠もりがちだけれども、鍬を一振りする毎に、そのべたべたが、この気持ち悪さが、煩悶が、毛孔からちゃんと体外に放出されてゆく。そして夢中にやればやるほど頭の中は冴えてきて、無意味な思考が逗留することなく、考えが単調で原始的なものに還ってゆく。無駄なものが、曖昧な意識がどこかに飛んでゆく。山と自分の身体が繋がって、一体化した気分になる。クソ。クソ。クソ。クソ。クソ。クソ。クソ。クソ。クソ。クソ。

   遠くのものも近くのものも、ちゃんと判る。クソ。クソ。クソ。

   斜面の終わりが眼の前にいよいよ現れたとき、祥平は鍬を持ち上げるのを突然辞めてしまった。もうちょっとのところ、しかるにその場に腰を降ろし、向かいの山や谷や村を眺め出した。

   振り向くと形成した小径は、ちゃんと細くて平坦な径になっていた。曲がりながら向こうの端からここまで続いている。

   祥平は考えていた。

   「朝、爺さんと下の畑で防風林を刈っていたとき、爺さんの頭に被った麦わら帽子に、綺麗な緑色をした尺取り虫が乗っかっているのを視た。尺取り虫は一体そこがどこなのかも判らずにただ乗っかっていて、身の危険を感じてなどはいなかった。あらゆるスピードは、自然の織り成す現象であった。その地響きの上で、虫も爺さんも俺も皆同様に生活しているのだ」

   「あゝ俺は、まるで尺取り虫のようだ。何をするのも億劫で、迷いあぐねて、次の道を開けず、棒立ちになって時が過ぎるのをただ闇雲に待つことがしばしばある。怠け者で、やりたいこともやらず、やりたくないことは勿論やらない。ほんの少しずつだけしか、前に進めないのだ。そうしている間にまわりの草や種はぐんぐん背を伸ばし、芽を生やし、俺はその茂みの陰に隠されて存在が失くなってしまって、それが嫌だからスピードの上に乗っかって、どこかに逃げ出すのだ」

   「俺は尺取り虫だ。俺は少しずつだけしか前に進めない。神戸の1LDKのマンションで、引っ越しをする前に、俺は心に決めたことがあった。俺はいつか小説家になろうと決めたのだ。今はまだ何も書けないだろう。今の俺にはその知恵もエネルギーも無いのだから。けれども、俺は尺取り虫だ。三十になる頃には、何か書けるようになっているだろう。絶望してはいられない。三十を超えたとき、何かが書けるようになるだろうと、そう云う気が、今たしかにするのだから。それまでは牛歩でも構わない。経験を重ね、考えをまとめ、少しずつこれらを積んでゆけばいい。さあこの径の最後の仕上げは、明日まで取っておこう」

   祥平は嵌めていた軍手を外し、中の汗に湿った掌を優しく撫でた。土が爪や皺に入り、指は豆をいくつか拵えていた。陽は山の中に沈みつつあった。

   祥平は、決心した。波止場での出来事がきちんと整理された面白いもののように思えてきた。そしてそのイメージを自由に脳内に遊ばせながら、へんな無表情になって軽トラに乗り、くしゃくしゃの煙草に火をつけ、歪にくねる蛇の道を祖父の待つ谷の倉庫へと降った。

   放っておくと渋滞になるような、ゆるやかなスピードに乗っかっている。そのスピードは、祥平をどこかへ連れてゆくことになるだろう。それが望む場所かは判らないが。

   

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