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森を見て樹を見ず

今に始まったことでもないんだけど、今年は”消費”し過ぎてしまったなと反省。ここでいう消費は、お買い物意味ではなくて。

今や、youtubeなどで音楽やら動画やら無限にアクセスできてしまうので、
気に入ったものに深く入り込んだり、味わったりってのが減ってきてませんか?

音楽って、記憶と繋がってますよね。
例えば、ハタチで失恋した時は、椎名林檎ヘビロテだったなあとか。
スノーボードにハマってた時は、ダンスホールレゲエが好きだったなあとか。

だけど最近は、気分で選んで、アーティストの名前も知らず、サラーっと聞いて終わり。
で、ハイ、また違う人ー。
記憶ともさほど繋がらない。
こんなの、No music, No lifeじゃない!と声を大にしていいたい。

もちろん、音楽に限らず、アートや、情報も。
すぐにネットで見れちゃうから、5感を使わなくても、味わった気になっちゃう。理解した気になっちゃう。

いやいや、違う。これは味わってるのではなくて、消費してるんだよね。

消費、疲れる!!
消費って疲れるんだよー。
選択肢がありすぎるというのは果たして幸せなことかわからない。
たとえ素晴らしいものでも膨大だと、心がすり減る。

知らず知らずに毒まんじゅうを食べさせられてる時もあるし。(訳:消化できない話/情報を食わされるというたとえ)

しかも、厄介なことにaddictiveなんだなあ。

シュタイナー教育では、子供に物質面での選択肢を与えないという考えがあります。

「朝ごはんは、目玉焼きがいい?スクランブルエッグ?飲み物は?オレンジジュース?それとも牛乳?」

「おもちゃは何が欲しい?色は?サイズは?」

この、子どもへの質問攻撃は、子供を不安にさせると言われています。
天使の世界からやってきた小さな子供に、膨大な選択肢を投げかけるって、想像しただけで恐怖と混乱ですよね。
現代の大人も一緒だなと思うんだ。

しかも、自分の周りに素敵なことをしている人がいるのに、その存在には気付かず、地球の裏側にいる人や、遠くで起きていることに心を向け過ぎて、混乱しているという。

森を見て樹を見ずだなあ。って。
森は樹々によって成り立っているというのに。
私たち一人一人の存在は"樹"だというのに。

近くにいる人、コト、community

誰かが創りあげたアート、音楽、作品

目に留まったことは、大事にして、しっかり味わおう。

そうしたらやがて、樹をみて、森も見る。

そういう風に、なれるかな。

*2017年の記事より 2020年、コロナもあってますます情報の洪水ですね。淡々と目の前のことを。これが私の標語です。

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