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南の島の生と死とこれから

思い立ったが吉日、ということで先週サイパンに行ってきました。(けれどもずっと下書き保存していたから、もう2ヶ月も前のことになってしまった。やれやれ私。)日本からの直行便がなくなってしまったらしく、LCCで韓国トランジット深夜便でサイパンに着く。なんといってもニートは時間はあるけどお金はないからね!サイパンは北マリアナ諸島最大の島でアメリカ合衆国の自治領。ESTAがなくとも入国可能だけれど、インターネットで色々調べたらESTAがないと入国審査にとても時間が掛かるというので、14ドルだし、と思って申請ギリギリの72時間前に申し込んだ。VIZAのクレジットカードに感謝。インターネットは本当に便利だな。


真夜中、飛行機の中で星を見た。シートベルト着用のアナウンスが流れたから、もう少しで着陸だと思って窓のシェードを開けたら、まるで宇宙にいるみたいに星が瞬いていて、この世ではないどこかにいるような気がした。いやまぁ、宇宙に行ったことはないのであくまで例えの話でありまして、だどもやれと言われりゃ、おいどんも男なわけで(突然のRADWIMPS)。ってフザケテル場合じゃなくて、とにかく人生で初めての美しさだった。

ESTAのお陰で入国審査は手間取らずに済み、閑散とした空港ロビーを出る。当たりは山の中?なのか真っ暗で、待ち構えている深夜のメーターなしタクシー(タクシーは地球の歩き方を読んだ時の相場価格だったから)に乗り込こんだ。乗車中のほんの10分くらいの間に予定がないなら明日3時間100ドルの貸し切りツアーを出来るよとバッチリ営業された。営業を怠らないその精神に海外にやって来たのだなぁと眠たい頭でそんなことを思う。街中は随分と寂しい感じがするけど観光地にやって来たのだ。サイパンは公共交通機関がないから最初から滞在中はレンタカーを借りるつもりだったので、Abuさんの電話番号の書かれた紙はホテルのゴミ箱に直行。明日の朝になれば少しは雰囲気が違うのだろうか、とやや不安になりながらベッドへそのままダイブした。

翌朝どことなくカビ臭いようなカーテンからわずかに差し込む太陽の光で目を覚ました。一度にカーテンを開けるのは光量のせいで憚られたから、目を細めて少し覗く。オーシャンビューの部屋から望むフィリピン海は昨晩の漆黒からは想像できないほど、美しい青だった。光に順応したら、窓を開け放ってベランダに出る。海の濃淡でリーフの堺がはっきりと分かる。髪を撫でる風は強く、遠くにウィンドサーフィンの帆の群れを見た。夜中の考え事は杞憂にすぎなかったんだ、と。

けれどもホテルから一歩外へ出ると、近くの建物はどれも古びていてclosedのお店も多かった。ホテルの売店の人が言っていた『サイパンはシンプルだけどなんていうか良いところなの、分かるでしょ?』というどこか申し訳なさそうな笑顔をぼんやり思い返す。私は日本人観光客で溢れ、街が活気に満ちていた時のサイパンを知らないから何とも言えないけれど、少なくとも今のサイパンからそのエネルギーを感じることは出来なかった。経済が停滞しているというべきか、再開発に失敗した日本の温泉街を彷彿とさせるわびしさがあるように感じた。


私がサイパンに来たのはインスタ映えでもなければ、マリンスポーツでもなかった。このグアムより日本にずっと近い南の島(ここから広島や長崎に落とされた原爆を積んだ爆撃機が飛び立った)へ来たのは、ただ人に連れてこられたから。硫黄島やガダルカナルの戦いはなんとなく知っていたけれど、サイパンが戦地であったことはすっかり頭から抜け落ちていた。

マリンスポーツなら他の南の島でも出来るから、フライト中に読んだ地球の歩き方の付け焼き刃知識で、ヒストリカルな場所をまわることに決めた。戦争などの記念館に行ったことがあるのは26年も生きてきて沖縄のひめゆりの塔や広島原爆ドームくらいしかなかった。アウシュビッツの収容所に行ったこともなければ南京大虐殺の博物館へ行ったこともない。私が今まで見てきたものは自国が被害者としての側面を全面に押し出すような場所だった。今回生まれて初めて加害者としてのHistorical Place。そこで否応なしに感じたのは『あぁ70年前は私たち、私たちの国が、ここに暮らす人たちにとって統治者であり加害者なのだ』と。そして、戦争って一体、誰の、何のためのものなんだろうって。バンザイクリフ、とも呼ばれる海の断崖絶壁に吹く風はゴーゴーと強く鳴り、肌にさす日差しは少し痛かった。バンザイはもちろん日本語だ。バンザイって何にバンザイをしてこの白波が立つ海に身を投げたのだろう。70年前も海は同じように波が高く、岩場にぶつかり激しい音を立てたのだろうか。同じように照り返す光に目を細めていたのだろうか。自分がここで感じた心のざわめきに、どう言葉を尽くせば良いかまるで分からなかった。ただざわざわしたまま、欧米人や中国人が楽しそうにこの景色を背景に自撮りをしているのを眺めながら風に身を任せた。

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今日、私がサイパンを訪れ、日本人だと言っても基本的にサイパンの人はみな親切だ。けれども街に住む日系何世という人たちや、かの太平洋戦争でおじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんを亡くした人には私はどんな風に映るのだろう。もし自分の祖父や祖母が戦争でアメリカ人に殺されていたら?と考えたら居ても立っても居られなくなったし、私が日本人であることと、日本人としてこれからどう生きていくべきかを考えざるを得なかった。アメリカ人が殺したという表現も本当は適切でないことも分かっている。起きた事はもう変えられないから、重要なのはその後にどう行動すべきかなのだけれど、そんなのは当たり前で頭では痛いくらい分かっているけれど。【戦争】が日本人もアメリカ人も、朝鮮半島の人も、サイパンの原住民も多くの命を奪ったということ。もし、日本がサイパンを失わなずに敗戦を迎え、サイパンがアメリカではなく日本の自治領であったら?(そのもしは限りなく不可能に近い仮定であったとしても)サイパンにある戦争記念館はもっと違った戦禍の伝え方をしただろう。私たち日本人はサイパンの地で紛れもなく加害者であって、しかし同時に被害者でもあるということ。いつも一番最初に犠牲になるのは、ただ平穏に生きている人々だということ。


私たちは(ここでいう私たちは民族としての日本人ではなく)、人間は、とても脆い生き物であると思う。大義名分で誰かを殺められるし、宗教を隠れ蓑にし暴力に頼ることも。でも脆くて弱い私たちは、他者を理解しようと努めることが出来るはずだし、自分とは異なる存在に寄り添おうとすることも出来るはずだと思いたい。加害者にもならず、被害者にもなることがないような未来がいつかあるのだと信じたい。スーサイドクリフの上にあるマリア観音像。祈りはどこへ向かうのだろう。

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