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年始のご馳走、最期の晩餐、忘れられない愛する食べ物は?

正月なので親族が集まった。
と言いたいところだが、集まるというほど親族も多くない。
母と弟ふたりの家に、夫と娘とわたしの3人で出向き、途中で母の妹が来た。
しょっちゅう会っている間柄の人間だけであるから、積もる話もさほどなく、どこの店のランチが美味いとか、そんな話をした。
そんな話からの、死ぬ前に何が食べたいとか、そういう所謂「最期の晩餐」の話になった。
母は、今はなき鶏料理屋の、塩蒸し鶏。
夫は味噌カツとハンバーグ、これもどちらもとうになくなった店のメニューだそうで、どちらもわたしは知らなかった。
しばらく黙っていたわたしはふと思いついて、ケンタッキーフライドチキン、と言った。みんな少し笑った。

わたしが子供の頃、誕生日やクリスマスといったら、ケンタッキーフライドチキンだった。楽しかった。子供だった。
その楽しかった思い出が、大人になっても何となくずっとある。わたしの食べたいものは、どちらかというとそういうものだ。
その食べ物自体よりも、シチュエーションだったりする。初めて食べておいしくてびっくりしたとか、そういう記憶はあるけれど、そのもの自体がおいしくておいしくてまた食べたい、なんてそんな思い入れはない。
そういう食べ物がある二人が少しうらやましかった。
わたし本当はそういう食べ物は何もない、と言った。
母が、それならこれから出会うかもしれないよと言った。夫は味噌カツ一度食べに連れていきたかったといった。嬉しかった。
それから、夫のいちばんはあの店のラーメン。死ぬとわかったら最後に食べたい、といった。

夫はあの店のラーメンがもう食べられない。
重度の小麦アレルギーで、42歳で突然に発症し、好物のほとんどが食べられない体になった。
夫は元来食べることが好きで、外食好きだった。
わたしは、摂食障害だった。食べることが嫌いで、人前でものを食べるなんて不可能だった。
夫と出会った頃は、摂食障害のピークから十年近く経っており、どうってことありませんよ、という顔をして、外食することができた。
夫はたくさんのお店を知っていて、わたしを楽しませることに熱心であったから、いろいろなところに連れて行ってくれた。わたしは少しずつ楽しかった。わたしが知っているおいしいものの多くは夫が教えてくれたし、一緒においしいものを食べるのは楽しいって、夫が教えてくれた。
あの店のラーメンも何度も一緒に食べた。

死ぬ前にあの味が一度食べたいなんて、そんな思い入れが、本当にこれからできるのだろうか。
絶飲絶食で入院していたころ、点滴だけの生活がいちばん楽だった、幸せだった、と思うようなわたしだ。
摂食障害が治っても、食べることそのものはあまり好きではなかった。
食事をとることに大きな問題がなくなった今は、自分の作った食事がいちばん好きだ。
手料理がおいしいということも、夫が教えてくれた。重度の小麦アレルギーは、ファーストフードや出来合いのもの、インスタント食品のほとんどが食べられない。
ご飯、何を作ろう、って考えるようになった。
必然的に食べ物と真剣に向き合うようになった。
考えて向き合った結果、最近のわたしの料理は自然食みたいな献立が多くて、「健康的」「丁寧な食事」っぽいと自負している。

でも、死ぬ前にこれが食べたいと思うような愛はない。
本当にこれからそんなものができるのだろうか。
できたら素敵だと思ったが、別にいらないとも思った。
誕生日とクリスマスのケンタッキーフライドチキンが世界一おいしかった頃は、幸せだった。思い返しただけでも涙が出そうになる。
でも、二度と戻りたくはない。

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