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「宗教 = 危険」は本当か?

「宗教なんて危険だから近づいちゃダメ!!」
小さい頃にそう親から教えられた。

確かに、宗教を勧誘している人には無理やり勧誘したり、必要以上の献金を求める人もいてそれはよくないと思ったことはあった。
一方で、人は誰しも何かしらの宗教(というか思想)に寄っているのではないかと思うこともあった。

例えば冒頭に宗教は危険と言い切った親について。
最近、法事のため家族で集まった際に、うちの家系は臨済宗であることがわかった(少なくとも私はこれまで知らなかった)。
その時点で改めて、臨済宗とは禅宗の一派で、開祖は栄西で〜みたいなことを知った(あとは高校時代に日本史とか倫理でも習った記憶)。

ここで気になった事がある。
「宗教 = 危険」と言っていた親は臨済宗だったのだ。自分自身も宗教に関わっているではないか。
一方、親と話しているとよく「みんな仲良く」とか「相手の気持ちを考えて」とか「年上には敬語を使って敬って」みたいなワードが出てくる。
これは儒教(朱子学)やキリスト教もごちゃ混ぜになっている気がする。
確かに親はキリスト教系の学校を出ているので、キリスト教の要素がミックスされるならわかる。

ただ家が臨済宗で、言っていることやっていることがキリスト教と儒教の融合なのは違和感ありありだ。
そのくせ「宗教 = 危険」と言い切ってしまうのにはむしろ何か考えることへの諦めを感じる。
(深さという意味で)

ここまで書いた上で、私なりの見解はこうだ。
「宗教 = 危険」なのではなく、考えることを放棄し、ある側面だけを見て決めつけを行うことが危険なのだ。

人は何かしらの宗教にすがったり、思想を持っているはず。
(というか何かの宗教に少なからず影響は受けているはず)
ただそれに気付いていないだけで、無自覚であることに気付いていないことが非常に危険。

何か、義務教育の敗北すら感じる。
はるか大昔、「無知の知」という概念を生み出したソクラテスはどんな顔をしているのだろう。

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