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<閑話休題・芸術一般>写真のような絵と写真

 写真のような絵と写真とは、いったいどこがどう違うのだろうか?

 普通に考えれば、同じようにしか「見えない」。そして、昔よく聞いた言葉として、「写真がすでにあるのだから、絵の役割は写真になることではない。むしろ、写真とは違うものを表現すべきだ」ということがあった。そのため、マティスやピカソのような、あるいは印象派のような、対象そのものではなく、対象から受けた「印象」や自分の中に沸き起こった感情を絵筆を通じて表現することが、「絵である」と理解していた。

 その後しばらくは、こうした考えを盲目的に受け入れてきたが、最近(というより、正確には20世紀末からだが)、スーパーリアリズムとかハイパーリアリズムという名称で、絵の具や画材の多様化・高質化を契機として、写真のようなあるいは写真以上に写真のような絵画が出現してきた。それは、いわゆる印象派から始まる「自らの感情を表現する絵画」という流れに逆行して、昔の写実主義が復活・発展したようにすら見える。

 しかし、ふと考えてみると、写真もハイパーリアリズムも、一見すると対象となる現実そのものをそのありのままに写し取ったように見えるが、それを厳密に言えば、製作者の「眼と精神」(メルロポンティの用語を敢えて使用した)を通した映像を、印画紙やカンバス上に表現しているだけではないかと、はたと気づいた。

 この考え方の背景として、まず人が物を見ることの定義を考えてみたい。カントから始まるドイツ観念論哲学においては、人の眼はアプリオリ(先験性。つまり先入観)を持って対象を見ているため、実は対象そのもの、つまり現象そのものを正確に把握していない。眼で捉えた情報は、その人の持っているアプリオリによって、また(実際にあるがままではなく)幾分脚色されるという精神の働きによって「翻訳」されて、その人の「見た対象」となっている。

 だから、人が「実際に見ている対象」は、実は現象そのものとしての対象ではなく、「人が自分のアプリオリという色眼鏡を使って見たものを、さらに精神という脚色を経てから見ている」対象でしかない。つまり、個人ごとにまた場合ごとに、アプリオリに働く精神は異なってくるから、同じ対象を見ても、個人ごとにまたは場合ごとに、対象の見え方は違ってくる。

 さらに、この人の見た情報(仮に情報Aとしよう)を、実際に写真画像にする(カメラのシャッターを押す)とき、またはハイパーリアリズムの絵画にする(絵画を制作する行為)ときには、眼で見えたままの情報Aは、製作者の指先に伝わる過程で情報Bに翻訳されてしまう。これに対しては、わざわざ「翻訳」するようなことはしていない、見たままを写しとろうとシャッターを押しているし、また絵筆を使っているだけだという批判があるかもしれない。

 しかし、人の眼・精神・指という器官の働きは同一ではなく、それぞれ機能している情報処理及び伝達経路は微妙に相違しているため、それぞれ使用する「言語」が異なるものとなっている。そのため、これら器官に情報を伝達し合い、情報を受けとった器官が情報を利用できるようにするためには、その情報を自らの使用する言語に「翻訳」しなければならない。

 また一方では、「写真は、人の器官が関わっていないカメラのレンズと言う物質が写し取っているのだから、対象そのものとの相違はないはずだ」と言うかもしれない。しかし、このカメラとかレンズとかいうものは、人の身体器官同様に「中立」にはなれない。なぜなら、写真をやる人ならすぐに理解すると思うが、写真撮影には、構図の切り取りに加え、光の露出やシャッター速度などの様々な要素が関係しており、これが違うだけで出来上がった写真はまるで異なるものになるからだ。

 もちろん、レンズの種類も一定ではない。例えば、望遠レンズや魚眼レンズで捉えた世界は、人の眼が見えている世界とまったく異なる。極端に言えば、人が見ているものから大きく異なる世界や、さらに人の眼が見えないもの(水のしずくが飛び散る様等)を、写真にすることができる。先の情報AとBの例を援用すれば、写真情報はAでもBでもない、別の情報Cとなるだろう。

 この写真についての考え方を発展させれば、絵画、特にハイパーリアリズムで表現された絵画は情報Dとなり、これらの情報A.B.C.Dは相互に少なからず差異があることになる。そして情報B,C,Dは、同じ対象(情報A)を見て、情報Aを表現(再現)しているように思えるが、実は情報Aとは違うものになってしまう。そのため、写真もハイパーリアリズム絵画も、「対象の現象そのものを記録(再現)していない」という結論になる。

 そして、対象の現象そのものを再現(表現)できないということは、実は「人には対象の現象そのものを見ることができない」という原理が前提していることになる。

 ところで、冒頭に述べた「写真のような絵」と「写真」の相違という問題に立ち帰ってみたい。

 対象となる現象との差異があるという点では、写真も写真のような絵も同じである。そして、どちらがより「現実」という現象に近いかということの比較は意味がない。むしろ、対象の現象をよく再現しているという観点から見れば、実はハイパーリアリズム絵画よりも、キュービズムやコンポジション絵画の方が、より現象の再現になっているのかも知れない。なぜなら、それらは現象の背後にある、例えば運動とか時間とか空間とか、そういった概念(情報Aの一部)をも二次元の画面に再現しようとしているからだ。

 一方、写真は、現象の背後にあるもの(情報Aの一部)を画像に再現できないのかと言えば、それは「出来る」と思う。例えば、マン・レイやアンリ・ブレッソンなどの優れた写真からは、そこに映しとられた映像の背後にある多くの情報を読み取ることができるからだ。

 それは、例えばある同じ風景を見て、芸術家や詩人は「美しいイメージ」と感じるが、普通の人は「なんでもない風景」としか感じないのと同じ構造だ。つまり、優れた写真家は「対象の背後のものまで写し取って」いて、それを画像に表現(再現)している。

 従って、優れた芸術家たちは「対象の背後のものまで表現」しているからこそ、優れている。さらに、優れた詩人や作家たちも、「対象の背後の物語まで言語化」しているからこそ、優れているのだ。しかし、これらは対象の背景から感じたものを自分の言葉で表現しているだけで、対象の現象の全てを確実に再現していないという点では、なんら変わることは無い。

 そして、人は無理やりに対象の現象の全てを再現することが、必ずしも必要ではないと思う。写真やハイパーリアリズムの作品は、人にそうしたことを錯覚させるが、実は製作者の言葉で表現された芸術作品の一つであると理解すれば良いのだ。

 ここで冒頭の問いに戻れば、写真もハイパーリアリズム絵画も、芸術作品という観点では同じものであり、そこには製作者による表現の差異はあっても、対象の現象の忠実な再現というような比較する基準はないという、答えになる。

 ところで、私は20歳の頃、文学・芸術に没頭する自分を卑下して、世の中の役に立たない奴だと思い込んでいた。当時芸術とは何かと問われたら「世の中の役に立たない、価値を生むことも作り出すこともない、もっと言えば金儲けにはまったくつながらない、無益なもの」と答えていた。そして、無益であれば無益であるほど、逆説的に優れた芸術だと信じていた。

 実は今、この考え方が変わっている。芸術は無益ではなく、有益だと信じている。なぜなら「芸術は、普通の人が見えない世界を見える(読める)ようにしてくれるからだ」と答えられるようになったからだ。またなによりも、芸術のない人生なんて、無味乾燥すぎて生きられないだろう、と思っている。例えば、機械の歯車に「遊び」という「働いていないもの」が必要なように、人の生活にも「芸術」という隙間(遊び)が必要なのだと思う。

 ・・・だから、と敢えて私は言いたいのだが、芸術を金銭的価値で判断してはならないと言いたい。例えば、値段が付かないから悪い絵、高く売れたから良い絵というのは、まったくのナンセンスだ。もし、絵の価値を区別する必要があるのであれば、その基準は「現実の現象の背景まで教えてくれる作品」であるか否かではないか。(なおこれは、芸術の一部としての文学作品にも通じる。)

クレー 蛾の飛翔


絵本画家の日記 長新太

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