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<閑話休題>ホームズとポワロの生きた時代

 シャーロック・ホームズは、この名前自体が既に固有名詞化しているくらいに、世界中に膾炙した私立探偵の活躍を描く短編小説の主人公だが、彼の活躍した19世紀末ロンドンという、虚栄と繁栄が過度に達した世界を舞台にしているところに一番の醍醐味がある。

 また、アガサ・クリスティーが新たに創造した私立探偵エルキュール・ポワロは、ホームズに匹敵する探偵小説の主人公として、その名を世界中に知られている。ポワロの活躍したのは20世紀初頭、しかも第一次世界大戦終了後のベルエポック(フランス語で「良き時代」)と呼ばれた時期である。この頃、ロンドンの栄光は下火になっていたが、それでもまだ豪華な生活様式は健在だった。

 そして、これらの小説をドラマ化したものとしては、ホームズではジェレミー・ブレットが演じたものが白眉であり、ポワロを演じるのはデイヴィット・スーシェ以外に適役はいなかった。一方、現在では、単なるネタとしてホームズの名前を使ったドラマが多数作られているが、やはり秀逸なのは原作になるべく忠実に作られたものしかない。そして、ブレット版のホームズで見事に再現されている19世紀末ロンドンの描写は、優れた歴史劇の要素とロマンを持ちあわせたものともなっている。何よりも、豪華だが気品ある衣装と落ち着いた意匠の多い馬車で移動する場面が非常に良い。また、長距離移動に利用する蒸気機関車と客車の場面も、まるで印象派の絵画のように美しい。

 一方、スーシェ演じるポワロもので描かれている1920年代のロンドンやパリの風景は、当時の風俗を見事に再現しているのに驚くとともに、予想外に美しいことに気づかされる。そして、ホームズ同様、むしろホームズ以上にポワロが、上流階級の人間であることを誇示するかのように、極めてお洒落でつねにきちんとした服装をしているのが心地よい。また、ホームズの時代から続く帽子とステッキという紳士の必需品を、1920年代当時には既に廃れているのにも関わらず、ポワロがさりげなく使っていることも素晴らしい。

 1920年代は、既に移動の主役は自動車になっているが、かつての豪華な馬車のイメージを再現したような、当時の優れた車のデザインにしばしばうっとりさせられる。現代の人間味のかけらも感じられないスーパーカーの類とは異なり、クラシックカーの代名詞となる時代の車たちは、いずれも個性ある魅力的なものばかりだ。またポワロも、ホームズ同様に蒸気機関車で長距離移動をするが、既に時代は航空機になっている。ある挿話では、ロンドンとパリの間を低空飛行で移動する小さなプロペラ機の姿が描かれていたが、人が未だ機械を使いこなしていた最後の時代であったことを痛感する。機械(コンピューター)が人に使い方を指示するのではなく、機械が人に指示されることによって動かされていた時代だったのだ。

 ところで、ホームズとポワロに共通するのは、人々とのファッションが、奇抜さや珍妙さを競う現代と異なり、人類がお互いに心地よいと感じあえる最高のレベルでエレガントに作られていた時代であったことだ。そして、こうした人々のファッションに象徴される関係は、現代のコンピューターに人が制御されている上に、携帯電話やインターネットによって人と人との距離に制限がなくなってしまう前の、未だ人と人が適切な距離感を持って尊敬し合える関係が残されていた、まさに「ベルエポック」の時代だったということだ。

 こうした時代背景があったからこそ、ホームズとポワロが活躍できた時代は、芸術・文学・科学・哲学・天文学などの分野で、革新的な発明や創造が多数自然発生したのではないだろうか。しかし、人類が飛躍的に発展した19世紀末に続く、輝ける1920年代から100年後の現代は、100年前の人々が期待しまた想像した「輝ける未来」とは正反対の、人類の文化にとって酷い不毛の時代になっているのは、本当に悲しいことだ。

 そして、こうした人類史上最悪といえる不毛の時代を一掃してくれるような、大天才の出現を期待したい。その大天才とは、少なくともコンピューター関係者や金儲けが上手い人々にはいない。金儲けに直結しない、また非生産的な、純粋な文学及び芸術並びに哲学の分野の大天才であるからこそ、有効な力を発揮することができるし、また意味があるのだ。

<私の世界の都市について書いたエッセイです。キンドル及び紙書籍で販売しています。>


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