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偏った思考回路が批評や分析を悪にしてしまう

年末年始、ネット上に公開されているいろんな人の文章を適当に読み漁っていると…
こんな文章を見つけたので、勝手に引用させてもらいます。

思い切ったことを書きますけど、自分はそうした演者側の方が正しい分析をするとは限らないと思っています。

一般のお笑い好きのような人が書いているお笑い賞レースにおける審査員論なのですが
お笑いマニアの人が陥りがちな間違った意見の典型なので引用させていただきました。

お笑い分析や批評に対する「皆目見当違い!」がM-1をキッカケにちょっとしたバズワードとなり、お笑い分析や批評をしている人たちがSNS等々でムキになっているのを時折見かけます。
「これも皆目見当違いって言われるんだろうけど」みたいなエクスキューズツイートも増えている。

しかし、批評や分析などは世の中に山ほど溢れかえっているし、それを生業にする人さえも存在している。そもそもムキになる問題ではない。
別に批評自体は構わないし、漫才であろうが歌であろうが世間に向けて何かを表現する以上、批評や分析を食らうことは絶対に避けて通れない。
飲食店だって一般のお客さんからの批評にさらされ、良くも悪くもあーだこーだ言われ、グルメサイトなどにおいて味や店の分析をされている。

何かを世間に向けて提供する以上、確実に批評や分析はセットでついてくる。
だから、ムキになる必要はない。誹謗中傷はダメだが、批評や分析は好きにやればいいのだ。

ただ、上記に引用させていただいた、「演者側の方が正しい分析をするとは限らない」に関しては、心の底から皆目見当違いだと言わざるをえない。

「やってない奴にとやかく言われる筋合いはない」という、演者側から一般の人に向けがちな攻撃に対する一種のカウンターパンチとも受けとれる。
ハイレベルな笑いのスキルを持っているからといって、笑いの分析や批評する能力があるわけではないとの意見なのだ。

ようするに
演者としての能力=審査員としての能力とは別物。
ゆえに、審査員を審査するという現代の風潮はあってしかるべきだという論調なのだが、、、
これはハッキリと間違っていると言い切れる。
「意見は人それぞれ」などで片づけられる問題ではなく、本当に皆目見当違いなのだ。

なぜ、この意見が皆目見当違いなのか?

答えはシンプルかつ明快。

審査員をするしないに関係なく
演者自身がお笑いに対する分析能力を持っているか否かなど、本当にどうでもよすぎることだからだ。

お笑い批評や分析に長けている芸人さんは数多くおりますが、それは言ってしまえば分析芸、考察芸であり、本芸とは一切関係ない。
分析芸を得意とする芸人が誰もが認めざるをえないほど説得力あるお笑い戦闘力を持ち合わせているかと問われれば、、、
ぶっちゃけ、なしである場合がほとんど。

分析は誰より上手いかもしれないけれど、M-1の審査席に座っていれば違和感しかないのは現実。
こうなれば全国ネットの高視聴率テレビ特番としては分不相応となってしまう。

お笑い大好き人間たちがこの手の間違い意見を発信しがちな理由は
お笑いマニアの思考回路で物事を判断してしまう偏りすぎたお笑いの見方に原因がある。

まず、大前提として
M-1の視聴率が20%だとして、その20%の中で
分析するほどのお笑いマニアなど、1%もいないのが世の中の真実。

普段お笑いを観ない人が観るからこそとんでもない数字を叩き出すわけで、それはソフトが成長したがゆえに起きている一つの社会現象。
当たり前の話だが、いきなりお笑い好きの人口が一晩だけ増加して叩き出している数字ではない。

分かりやすく例えれば、サッカーのW杯と同じ。
M-1と同様、W杯の時だけサッカー好きの人口がいきなり増えているわけではない。
普段Jリーグは観ないけどW杯なら観てみようかな…くらいの感覚で観る視聴者が9割以上を占めるのだ。

その理屈で考えると、全国ネットで行われる注目度が異常に高いお笑い賞レースにおける審査員とは何か?

にわかをテレビの前に引き寄せる橋渡し的役割。
テレビ番組として一番重大なポジションを担っているのは言わずもがな。

「演者側のほうが正しい分析をするとは限らない」とのことだが、そもそも正しいとは何なのか?
お笑いにおける正しいとは何を指すのでしょうか?

それぞれ年代も感性も違う人たちが、各々の主観で笑ったり喜んだりすれば、それがそれぞれにおけるお笑いの正解ではないのか?

ようするに、人それぞれの好みと感覚で良し悪しを判断するものである以上、一つの答えを導くことなど物理的に不可能。

となれば、分析や批評などの解説は途端に意味を失うことになる。
どれだけ細かく面白さを説明されようとも、どれだけ賢い分析をされようとも、面白いと思う人にとっては面白いし、つまらないと思う人にとってはつまらないからだ。

人が面白いと思うものに意味なんてない。
いちいち意味を考えることにも意味がないのだ。

意味のないものに意味を与え
優劣までも決める無理難題な役目を担うお笑い賞レースの審査員というのは、演者としての能力やタレントとしての格が全て。
その場を司る、圧倒的な演者としての力があってこそ世論を巻き込む可能性を秘める。

出場芸人みんなで束になってかかっていっても小指一本で倒される。
そんなくらいの力があってこそ審査してもらえる説得力が生まれ、お笑い好き以外の世間さえも納得させる。

たまに板の上で勝負しろ!と審査員に向けて息巻くバカ芸人がいるが、いやいや同じリング上で戦ったら確実にボロ負けするやろ!と全員がツッコむことになる人が大会の格を作る。

でなければ、9割以上を占めるお笑い好き以外の視聴者たちが置いてきぼりを食らうことになる。
この人たちが審査員?えっ、審査されるほうじゃないの?と、お笑いマニア以外の国民たちから言われているようでは権威が生まれない。

「いやいや、この漫才師は分析が上手いんですよ、批評が鋭いんですよ」と言われようとも世間は知ったこっちゃない。興味もない。

長嶋茂雄さんだから重みがある。
マイケルジョーダンだから影響力がある。
結果、興味はなくても観てみようかなと
興味のない人たちを引き寄せることに繋がる。

長嶋茂雄さんは分析力がちょっと…
マイケルジョーダンは批評する力が…

みたいな思考回路でいるうちは、一生アンダーグラウンドの世界で生きていくしかない。
せっかく興味のない人までも巻き込んで盛り上げようとしているのに、頑張って裾野を狭めようとしているとしか思えない。

本来決められない1位を決めるルールであり
なおかつ国民の大多数を巻き込むことを命題とされているなら
審査員はプレイヤーとしての実力、実績、スーパースターであるか、華やオーラが段違いなのか
いわゆる、演者としての格と能力が全てなのだ。

1つのテレビ番組として番組自体を面白くできる
圧倒的な出演者としての力。
これこそがにわかファンを大勢呼び込み、
興味のなかった大衆を巻き込み、
結果的に注目度を高め、
ソフトの権威を上げることに繋がっていく。

分析が上手いと定評のある漫才師などは、ラジオやYouTubeや音声コンテンツなどで笑いの分析芸を披露してくれればそれで十分。
その批評を好きな人だけが聞いてくれるわけで、それくらいが丁度良いポジショニングだろう。

だから、「演者側の方が正しい分析をするとは限らない」という意見は…

残念ながら、分析や批評のしすぎの副作用で
お笑い解説に取り憑かれてしまった人の偏った意見だと言わざるをえない。
こうして、皆目見当違いな意見になってしまうのだ。

お笑い賞レースがバズってしまうがゆえに増殖する
非常に危険なネットの流れだからこそ、
ここは厳しくもきっちりと正しておく必要がありました。

そう、この考え方は想像以上に危険なのだ。
なぜ危険なのか?

ふーん、じゃあ分析好きな君らだけで勝手にやったら?と一肌脱いでくれているスーパースターに突き放されたら、、、

お笑いマニア以外の大衆は一斉に興味を失い
今まで築き上げたもの全てが終わります。

お笑い好きの分析至上主義の解説くんたちが
自ら大好きなお笑いの発展を終わらせていくという
目も当てられない皮肉地獄。

誰だって批評はしていいし、分析や考察の楽しみだって分かります。
しかし、1番大切な根幹の部分だけは絶対に間違っちゃいけない。

そこまで興味のない大勢のにわかファンたちが
君たちの好きなものの価値や地位を底上げさせている現実だけはお忘れなく。

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