見出し画像

ゲームの美学 アートにおける理論と実践

「キュレーター」という職を名乗ることに、いささかうしろめたさを感じながら、それでも他の職業へ想像をめぐらしては違和感を抱えながら主婦と子育ても経験し生きてきたここ10年ばかり。昨年から今年にかけて久方ぶりに、これがキュレーターの仕事なのかも、と納得する貴重な経験を得た。
今回は、その一つとして開催した小さなトーク企画について記したい。

「Aesthetics of Game ゲームの美学」と題したトークは、2023年1月27日、ドイツ、ハンブルクにある Künstlerhaus FRISE(芸術家の家 フリーゼ)というアーティストランスペースにて開催された。
スピーカーは美学の研究者、吉田寛さんとアーティストのジェレミー・コルティアルさん。




企画のいきさつ:スクリーンの向こう側で何が起こっているのか?

このトークを企画しようと思ったきっかけは、学生時代の友人である美学者の吉田寛さんが、私の住むドイツにあるライプツィヒ大学で客員教授として1年間過ごすことになったという知らせを受けたことに始まる。
吉田さんは、美学者でありながら「ゲーム研究」をしているという。

カント、ヘーゲルに連なる西洋美学の本場、ドイツの大学に来てビデオゲームを研究するなんて吉田君らしいな、と感心しつつ、ゲーム研究で、一体どんなことが分かるのだろう?と、彼の研究内容に興味を持った。私自身の10代の息子がゲーム好きなこともあり、彼の行動、心理を理解したいと思ったことも大きい。
いつもディスプレイ/スクリーンと睨めっこ、話しかけさえする彼をこれほど惹きつけるものはなに?スクリーンの向こう側でなにが起こっているの?

吉田君の「ゲーム研究」について深く知りたい、私一人で聞くにはもったいない、みなさんと共有したい、と強く思ったわけだ。

私の住む北ドイツの街ハンブルクにいる友人のアーティスト綿引展子さんに相談してみた。彼女はFRISEというアーティストグループに所属している。FRISEは、展覧会やアーティストが滞在したりできるスペースを持っていて様々な企画を開催している。
綿引さんによると、企画書を出して認められれば、トーク会場と宿の提供はできるという。吉田君に恐る恐る聞いてみることにした。
「ご自身の研究か観光にでも引っ掛けて、ハンブルクに来てお話をしていただけないでしょうか?」

大学で教鞭を取り、激務に追われているはずの吉田先生だが、学生時代そのままの軽いノリで「いいですよ」と快諾いただいた。

Künstlerhaus FRISE, Hamburg


ゲームとは「ルールの中で遊ぶこと」-ではアートとは?


トークの開催に向けて、私も彼の著作などでゲームについて学び、ゲームをするという行為やゲームそのものの構造について理解を深めていった。

吉田さんが紹介するゲームを分析した理論の中でも特に腑に落ちたのが、「ゲームとはルールの中で遊ぶこと」ということ。定められたルール、規則内で遊ぶ、プレイするのがゲームと呼ばれる行動の基本的な構造である。それはスポーツの試合も英語でゲームと呼ばれることと同じである。

振り返ってアートでは、自由であることを信条とし、ルールがあったとしてもそれを無視する、超えていく態度が求められる。なるほど、アートとゲームは正反対の性格なんだな…私自身がなんとなくゲームとは距離を置いていることに妙に腑が落ちた。

そしてその時、あるアーティストの仕事が頭に浮かんだ-フランス、リヨンを拠点に活動するジェレミー・コルティアル。彼もまた15年以上前からの長い友人だ。
アート、グラフィック、ゲーム、DIY、などなど。彼の仕事を一言で括るのは難しい。軽やかに領域を横断するその仕草は明るさと楽しみに溢れていて、人の心を解きほぐす要素がいっぱいだ。その自由な精神こそ、彼のアートだといっていい。だが、一つ一つの作品を前にすると、それをいわゆるアートの文脈に載る言葉で語る方法を見つけられずにいたのだ。

ジェレミーは、自分でゲーム機を作ったりしている。例えば《フリップペイパー》という作品。

Jérémie Cortial, Flippaper (collaboration with Roman Miletich), 2016

ゲームセンターに置いてあるような大袈裟なアーケードゲーム機、そのスクリーン画面に紙を敷いて、ポスカの色ペンで好きな絵を描く。ゲーム機のボタンで絵をスキャンすると、内蔵のコンピューターがドローイングを読み取り、AIがそれをフリッパー/ピンボールゲームに書き換える。つまり、ドローイングがピンボールゲームの枠線になり、ゲーム機でピンボールゲームが遊べるというものだ。

面白い、楽しい、身体性、と明るくポジティブな言葉がピンボールのように跳ね回る。

で、それで?
「インタラクティブアート」などというかしこまった現代美術の語彙からも「AIを駆使した高度な情報技術」といったゲーム産業の枠組みからもはみ出している。そんなジェレミーの作品の言語化が、私はいつもちょっと苦手だった。

そこに「ゲームとはルールの中で遊ぶこと」という吉田さんの言葉が、ある枠組みとして与えられる。ここで初めてジェレミーのつくった、ゲームをモチーフにした作品の本質が見えてきた。

ジェレミーの作品の本質とは、「ルールを自分でつくること=遊ぶこと」につながる、ということ。フリップペイパーでは、ゲームのルール(ピンボールを跳ねたり、ゴールを設けたり)を自分でつくるという自律性を、ドローイング、お絵描きという、いとも簡単かつ楽しい手作業で導いている。

ゲームというと時間とお金を貪りとられる受動的なエンタテイメントなのでは?、という私のような親世代の心配目線を裏返す「自分でルールをつくるゲーム」。それってアートの本質だ。
フリップペイパーは、実は消費社会にしばられている私たちに向けて、「自分でルールをつくるのが遊びだよ」とアーティストから差し出された提案だったのだ。


そこで思いついた。吉田君のトークにジェレミーにも参加してもらって、二人一緒に話をしてもらったらどうだろう?

美学者による理論の講義+アーティストの実践のプレゼンテーションがあると、アーティストランのスペースに集う人々の関心にも近く、より面白いものになるだろう、とジェレミーにトークへの参加を持ちかけた。予算は後から探すことにして、とりあえず話をしてみると「面白そうだね、いいよ」との二つ返事でジェレミーの参加が決定した。

吉田寛 Aesthetics of Game レクチャー、FRISE (Hamburg) 2023


スクリーンのこちら側、プレイヤーの身体


こうして実現した「ゲームの美学」のトークの会場で、私は2度目の気づきを得ることになる。

吉田さんは講義の中で、ゲームにおける空間の重要性を説いた。
ビデオゲームはスクリーン画面(ディスプレイ)に向かって遊ぶため、ゲームというと画面の中で展開している画像やストーリー、テクニックについて語られることが多いが、実はプレイヤー(遊ぶ本人)がいるスクリーンのこちら側の空間「プレイヤースペース」で起こっていることに目を向けることが非常に重要であるとの指摘だ。

ヤスパー・ユルによる「デジタルゲームにおける3つの空間」吉田さんの発表スライドから

吉田さんによると、任天堂をはじめとする日本のゲーム会社は、そもそも「おもちゃ、玩具」の会社であることが多い。そこでゲーム機を製造販売するにあたって、ゲームコントローラーを手で遊ぶものとして捉え、その物質性とそれに関わる身体性に非常なこだわりを見せているともいう。つまり、画面の中だけでなく、プレイヤーの空間にも重点を置いているということだ。例えばWiiのような体を使うビデオゲームの開発もその傾向から生まれたものだという。

Jérémie Cortial, Flippaper (collaboration with Roman Miletich), 2016

ここで再びジェレミーの作品《フリップペイパー》に戻る。スクリーン画面上で繰り広げられるのは、AIプログラミングによるピンボールという遊びだ。このスクリーンの外側に、大掛かりなアーケードゲーム機、紙と色ペン、そしてドローイングをする人の手がある。いずれもスクリーンの外にある空間での我々プレイヤーの活動に関わるものだ。

「スクリーンの向こう側で一体何が起こっているのか?」という私の当初の疑問を覆すかのような大仰な仕掛け。つまりジェレミーが問題にしているのは、実は「スクリーンのこちら側」なのだ。

つまりジェレミーの作品においてプレイヤーは「ルールを自分でつくること=遊ぶこと」だけでなく、「自分でつくる」という過程とその道具である色ペン、そしてゲーム機に「抱きつく」ように遊ぶ際の身体性、さらに「観客=一緒に遊ぶ友」が非常に重要であるということが、目に見えてきた。

アーティストのメッセージはシンプル:”プレイヤーは、スクリーンのこちら側の空間「プレイヤースペース」を開拓しよう!

人間の本質は遊ぶことにある

「ゲームをつくる」ということで、どこかオタク扱いされて、いわゆるコンテンポラリーアートの文脈から外れていくジェレミーの仕事は、そんなこともお構いなく、遊ぶこと、その楽しみに集中している。

「人間の本質は遊ぶことにある」とは、20世紀初頭の哲学者ヨハネス・ホイジンガの言葉だが、この言葉はそのままアーティスト、ジェレミーの態度にも当てはまる。

Jérémie Cortial “Jouer ! Ne pas devenir un robot 遊べ! ロボットになるな” 2023


ゲームで遊ぶ時、コントローラーを操ることで支配感を得られる満足。
でもそこで満足していいの?
君は、ゲームにコントロールされていないのか?
誰が誰をコントロールしているの?
ロボットになるな!遊べ!

資本主義に支配され尽くした世界から抜け出すことこそ、自由なほんとうの「遊び」なんじゃないか、とジェレミーはにこやかに紙と色ペンを差し出す。

そしてこのことは、実は資本主義に支配され尽くされようとしている、コンテンポラリーアートの世界にも当てはまるのでは?と私は、我が身を振り返る。
マーケットと政治のルールに則ったアートの世界で満足していいのか?
私たちにとってほんとうのもの、自由なアートとは、なんだろう?


Jérémie Cortial, Chienpo Electric City, 2022


…こんな問題意識をもって、「ゲームの美学」と題してゲームとアートの研究を始めることにしました。

「理論に助けられながらアートを理解すること」-芸術研究の初歩ともいえる道程をあらためて示してくれた、吉田君とジェレミー、そしてこの機会を与えてくださった綿引展子さんとFRISEに感謝します。
そしてこれからもよろしくお願いします!


記 ハンブルクにて 2023. 11. 18



吉田寛
『デジタルゲーム研究』(東京大学出版会、2023年)
YouTube「未来に残したい授業 吉田寛さん:ゲーム研究とは」
X(Twitter): @H_YOSHIDA_1973

ジェレミー・コーティアル
https://jercortial.com/
X (Twitter): @jercortial
Instagram: @jercortial

綿引展子
www.nobukowatabiki.jp
Instagram: @nobukowatabiki

Künstler*inenhaus FRISE
https://www.frise.de/


©️Jérémie Cortial
©️Hiroshi Yoshida
©️Yuka Tokuyama
無断複製、無断転載を禁じます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?