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「わかる」ことは正義ではない

言葉を受け取ることは、時として、言葉を発することの何倍もの気力と体力を要する。

だから、手紙や本を読んだり、展示に足を運んだり、時に人と会って話したりすることすらも、それ相応の覚悟を持って臨むようにしている。
気力と体力がないときは、向き合うのを先延ばしにすることさえある。

それゆえ、ツイッターで知った最果タヒ展に出向くのも、本当は少し躊躇していた。
今の自分できちんと受け取ることができるのか。そんな不安を抱えながら、渋谷パルコの4階で受付を済ませ、会場に足を踏み入れる。

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壁面や、天井からぶら下がる輪っかの内側、床の上の立体物なんかに、言葉がずらりと並んでいた。
足を止めたり、その場でくるくる回転したり、時にしゃがんで見上げたりしながら、一言一句を咀嚼しようと試みる。

奥の部屋へ進むと、そこは言葉のモビールの海だった。
身長より低い位置にくるものもたくさんあったから、文字通り、言葉をかき分けるようにしながら進む。

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あまりに膨大な数のそれらのひとつも見落とさないよう必死に目で追っていると、だんだん持久走をしているような気持ちになってくる。
集中すると息をつめてしまう癖も相まって、なんだか苦しくなってしまったので、時々わざとラインを開いてみたりした。

どの言葉にも、ひりひりとした感情が宿っているように思えた。
生きている人が放つ刹那的なきらめき、閃光、鈍い光。
いろいろな強さの光が空間に満ち満ちていて、その光景はうつくしくもおそろしかった。

抽象的な言葉があるかと思えば、俗物的な言葉や俗っぽい言葉も目に入る。
全体として掴みどころがなく、ものすごく感情移入できるようなものでもなく、正しく「わかれて」いるのかどうかわからない、というのが正直な感想だった。

詩は、「どう読まれたいか」を期待して書かれた言葉ではなく、一つのものを届けようとする言葉でもないから。詩を前にしたとき、その人には「自分はそれをどう思うか」しか、きっと残されていない。
(展示の「あとがき」より一部抜粋)

この空間を出て行く前、入り口の壁面に記された上記の文章を再度読んで、そもそも「わかろう」としていたことがおこがましかったのだなあと気がつき、また救われもした。

なんだかわからないけれどうつくしい。なんだかわからないけれど苦しい。ただそれだけで良かったのだ。

わかりたい、と強く意識することは、時に素直な感情の邪魔をする。
もっとも怖いのは、わかっているふりをしている自分に、自分で気がつけないことだ。


帰り道、五感を見ひらいて渋谷の街を歩く。
渋谷で感じる孤独は「正しい孤独」という感じがする。それは、ひとりの部屋で腐っている時よりも、なんだか生産的なさみしさだ。


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