私は、未だ見ぬあなたの図書館でありたいの。

書きたいから、書いている。

それも不正解ではない。でも、私を指すにはちょっと違っている。書きたいのは嘘ではない。でも、書きたいから書いていると言い切れる私でもなかった。

昔から文章を褒められることが多かった。現在載せていただいている編集部の皆様には、評価していただいている。

だから、"お仕事"がある。下手くそで到底目も当てられない文章を書いていたら、こんなことは起きない。

今の段階では、文章が上手いなんて言い切れないけれど、一定のレベルに達していることは認識しなければ、頂いているお仕事に失礼だ。頂ける期待に、何かしらの成果を返せているから、継続してお仕事がある。評価がある。

私は、ずっと小説を書いている。エッセイを書くことに行き着いたのは、2019年。

2019年の1月。アルビノについての番組が放送された。私は退職までカウントダウンが始まった休職中の身で、自棄になりながら、友人とメッセンジャーを交わしながらの視聴だった。

カラーコードの話だった。身に覚えがありすぎた。これで何度アルバイトを落とされたことか。それで収入が減ったことはどれほどだろうか。差別は、たしかにそこにある。

その番組を観た後、私はnoteに登録し、マガジンである企画を立ち上げる。それが、"アルビノと黒染め"だ。

番組でも話題となった黒染めについて、当事者にインタビューする企画だ。3人の当事者に協力してもらい、私は記事を完成させた。

あのとき私は、"アルビノの人が考えていること"の例をいくつも提示したかったのだ。"おかしい"の感じ方にもいくつも種類があると。世界は、白と黒だけではない。

私が、そのとき持っていた手段は、書くことだけだった。かわいい絵柄でコミックエッセイでも描いてTwitterに上げられたら、本当はもっと効果的だったのかも、しれない。けれど、私が戦場に持っていける武器は、文章しかなかった。

書きたい気持ちに嘘はない。けれども、書くしか残っていなかったのも、また事実。

伝える手段が、書くことだけだった。

これもまた、揺らがない事実。

では私は、何を伝えたいのか。アルビノの人がそれぞれの考え方を持っていること? きっと、それだけじゃない。

私は、記録を残したいのだ。何のために?

未だ見ぬあなたが、アルビノのことを知りたいと思ったときのために。

私が綴るとき、若いアルビノ当事者に向けられている割合が高いことも、支援者に向けられている割合が高いことも、アルビノを知りたい"普通"の人に向けられている割合が高いことも、ある。アルビノを知りたいと思ったとき、あなたは、私の文章の読み手になる。

若く何も知らなかった頃の私へ。泣き暮らしていた頃の私の親のような人へ。私を見守り続けて、知ろうとしてくれた人へ。

そうは書いたが、やはり一番は、若い当事者へ向けて書いている。アルビノの人がどう大人になっていくか、そういった"現実"の話はあまりにも少ない。

知らないことで、不安になる。知っていればしなくていい失敗や挫折を味わってしまう。差別を差別と認識できない。

そんな夜を、私の日常を綴ったエッセイを読むことで、少しでも埋められたら。少しでも、助けになれたら。

これは、きっと若い当事者への記録の譲渡なのだ。少しずつ、生きやすくなるための、小さな芽。

そのためには、私の重ねた記録が、エッセイが、必要だ。それらの記録はやがて、図書館になる。

それが、書くしか武器を持たない私の、やりたいことだ。

執筆のための資料代にさせていただきます。