記号化する個性

おはようございます。
今日は照りつける太陽が残暑感満載ながら、風が吹けば秋の始まりを感じさせてくれる朝。
昨日の夜はせっかくの8月2回目の満月にして、今年最大となるスーパームーンだったのに都内は薄く雲がかかって朧月夜でした。今回8月のスーパームーンは、2月の一番小さい満月よりも直径にして14%、面積にして29%も大きいというだけに綺麗に見えないのは残念だったけど、まぁそれも風情ということで。

さて、今日は個性は記号化する、という話。
何の話かと言うと、僕自身がちょんまげで認識されていて、髪を切ってそれが無くなった時に僕だと認識されない、という話。

生きていてどこかしらのコミュニティにもたまにいる長髪の男性っていたりするじゃないですか。ちょんまげの人も含めて、肌感覚として今のご時世100人中2,3人程度いる感じの。
それが僕です、正確には僕でした。

ただ僕は髪を伸ばすのが好きとか強いこだわりがあるといったポジティブなものではなく、切りに行くタイミングを見失い続けた結果かなりの長髪になる。そして、いい加減洗うにしてもセットするにしても面倒でストレスになったら切る、というサイクルを20代半ばからずっと繰り返してきている。切る時にはバッサリ行くので、髪が伸びて後ろで束ねて最終的にお団子にしてから切るまでは大体2年+アルファという単位で1度髪を切る感じ。
(途中後ろ髪だけ伸びてバランス悪くなってくると、なぜか元々家にあった鋤き鋏で襟足だけ自分で整える)

そうやって、今回夏休みに、いい加減シャワー後に髪を乾かすのも首の裏に髪があるのも鬱陶しくなって、その数年に1度の散髪をしてきた。「暑い」という点と「髪を洗うのが面倒」という2点から今回はいつも以上に短くしてもらって、一般的に言ってショートの部類に入る位まで短くした。美容師さんも「写真撮りました?」と言ってくれたけど数年に一度起こる事なので写真は不要、さくさく切ってもらう。切り出して10分もするとまずは大まかに全体の髪を切り落としていくので触らずとも頭が軽くなったことを感じる。そこから毛先を整えてもらって終わる頃には足元に小さなプードル数匹分の毛玉が足下に転がっていた。

さてさて、そんな訳で期せずして夏休み前にちょんまげだった男が夏休み明けにショートで帰ってきたらどうなったか。

まずちょんまげという一般的ではない強すぎる元々の個性が故に、髪が変わっているので一瞬戸惑われる。ここまでは変化が大きいからわかるけど、ちょんまげという記号がなくなったことで僕だと認識されない、ということも度々発生する。通り過ぎ側に挨拶されてもスルーされたり、いつもの席に座っているのに近くの席の同僚に「あれ、この辺にいませんでしたっけ?」と聞かれたり。

  「僕」=「ちょんまげ」
→ 「ちょんまげ」=「僕」
→ 「ちょんまげなし」=「僕じゃない」

内面的な個性は話したり付き合いが長くなればなるほど伝わるし分かり合えるし失われることはないものだけど、髪型のように如何様にもなる外面的な個性はすぐになくなってしまう(だからこそいつも同じスタイルをキープする人もいる)。一旦その個性がなくなってしまうと、もう自分として認識してもらえなる。
それ位「ちょんまげ」は大きな個性だったのだ。

ちょんまげであることを目指しているわけではないけれど、今回結果としてちょんまげが自分の個性になっているという実感とそこからそこはかとなく感じられる愛おしさ。「有難いことね」と感じながら、こだわりから二時的に起こる意図しない変化はなるべくいろいろ楽しめるように今後もしていけたらいいな、とも思うのでした。短くした今も楽だし涼しいし、結果的な雰囲気もこれはこれで好きなので。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。

皆様も、良い一日を。

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