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マテオ・リッチとその時代~ローマ、マカオ、中国、日本、朝鮮~

 在明清(中国)のイエズス会士による天文学が、キリスト教禁教下の日本の天文学に影響を与えたことは、これまで書いてきたけれども、こうした流れのはじまりには、イエズス会のイタリア人宣教師マテオ・リッチ(中国名 利瑪竇)という存在があった。マテオ・リッチ(1552-1610)は、グレゴリオ暦の制定に関わったローマのクラヴィウスの教え子で、マカオ経由で北京に入って活動したが、リッチによる『坤輿万国全図』は、日本の渋川春海や新井白石だけでなく、前野良沢らにまで影響を与えた。今回は、そんなマテオ・リッチの生涯を追いつつ、リッチの側から見た当時のマカオや中国(明)や日本、朝鮮の情勢などを見ていきたい。これらのことを考えるのにあたって参考にするのは、比較文学・比較文化が専門の東大名誉教授・平川祐弘氏の『マッテオ・リッチ伝』全三巻(東洋文庫)である。比較文化の徒による本書からは、ローマ、マカオ、中国(明)、日本、朝鮮といった幅広い世界について学ぶのに必要な視座が与えられるだろう。

1、マカオ、天正遣欧使節団、グレゴリオ暦


 1552年、マテオ・リッチは、イタリアのマチェラータの薬屋の息子として生まれた。リッチは、1572~75年にローマのコレジオで、クラヴィウスから数学を学び、1582年8月にマカオに到着した。その5か月前には、日本の天正遣欧使節の一行がマカオに到着しており、イエズス会士たちは、使節のメンバーの一人である伊東マンショから日本語を学んだりしていた。この年は、グレゴリオ暦が制定された年でもある。イエズス会士たちは、マカオの中継貿易による収入を活動資金にしており、マカオはイエズス会のアジア活動の拠点であった。ポルトガル国王は、教皇教書によって政治上・商業上の利権を握っていたが、諸国でカトリック教会の勢力を伸長させる義務があったから、貿易利潤の一定部分がイエズス会の収入になったらしい。
 リッチがマカオに到着した1582年の年末、イエズス会士のルッジェーリとパジオが明に向かったが、うまくいかずマカオに引き返した。結局、翌年、ルッジェーリとリッチが中国(明)に、パジオが日本に向かうことになった。

2、文禄・慶長の役の余波


 交通やインターネットが発達した現代と違って、当時は出した書簡が届くのに、たいそう時間がかかり、たとえば、中国からヨーロッパに手紙を出して、その返事が届くのに5~10年かかった。対して、日本は中国から近かったから、リッチは日本のイエズス会士たちとは、まめに連絡を取り合っていたらしい。1582年から約8年に渡った天正遣欧使節団の長い旅の帰国の報は、リッチにも届いていた。天正遣欧使節とはマカオで顔見知りになっていたし、使節一行はリッチの故郷も通っていたから、リッチにとっても親しみのある存在だったかもしれない。しかし、使節が戻った頃のアジア情勢は、きな臭いものになっていた。いわゆる秀吉による朝鮮出兵すなわち文禄の役(1592~1593年)、慶長の役(1597~1598年)である。この頃、明では、日本との間に大戦争が勃発するのではないかと人々が心配していたという。日本人を直接見たこともなく、うわさで倭寇としての日本人だけを知って恐れていた明の人々は、外国人全般に対して、神経質になっており、リッチも日本のスパイではないかと疑われたりした。
 ところで、文禄の役と慶長の役の合間の頃、リッチは日本のオルガンチーノとパジオからある報告を受けていた。それは、日本が明の国王と平和条約を結ぼうとしていて、その交渉の日本側の代表がアゴスチーノ(小西行長)で、このアゴスチーノが明側の代表に向かって日本にいる神父たちが明に入国してキリスト教伝道ができるよう許可を求めて交渉してくれるという内容であった。小西行長はキリシタン大名で、イエズス会の中では、イエズス会に従順な人間だと思われていたというが、小西行長が、この提案を実際に受け入れたどうかはわからない。(小西行長に限らず、キリシタン大名は、大名あるいは武将としての状況判断で動いたから、イエズス会の思惑通りに動いたわけではない。) 現代の日本人にとっては、思いがけない提案にも見えるが、それは、朝鮮出兵の失敗や秀吉の死とその後に続く徳川の時代をすでに知っているからであろうか。この提案は、日本のイエズス会士や中国(明)にいたリッチには希望の持てるものに見えたらしい。その背後には、明で思うように進まない宣教活動の現状があった。中国のものをありがたがる日本人の習性を知ったイエズス会は、まずは中国をキリスト教化することを目指して、ルッジェーリやリッチを中国(明)に送ったのだが、中華思想の明では、宣教は思うように進まなかったのである。一方、日本では秀吉が禁教せざるを得ない程度にはキリスト教が広まっていたので、当時、南昌にいたリッチが北京に向かうより、日本の宣教師たちが北京に向かう方が早いと日本のイエズス会士たちやリッチたちは思っていたようだ。
 それでも、リッチは自分が北京に向かって国王に会うことを諦めなかった。まず、1598年に北京に向かったが、慶長の役の最中ということで、このときは国王との面会は叶わなかった。実際、リッチが北京に向かって北上する途上、日本軍と戦うために朝鮮に向かう明の大軍とすれ違ったという。リッチが、北京での国王との対面に成功したのは、ようやく1601年のことであった。このとき、リッチは多くの贈り物を持参したが、その中には、キリストや聖母マリアを描いた絵画があった。これらの絵をみた国王(神宗帝)は、「これは活仏だ」といったが、気味悪がってマリアの図を皇太后に贈った。しかし、皇太后も気味悪がって、結局、内庫に納められたという。このように、宗教画は受け入れられなかったが、自鳴鐘(時計)とクラヴィチェンバロは喜ばれたようである。
 マカオを出て、20年近くの時を経て、ようやく北京に落ち着くことができたリッチは、1604年、北京の聖堂に、聖母マリアの図を新たに安置した。この絵を描いたのは、1579年に日本で、中国人の父と日本人の母の間から生まれた倪一誠であった。倪は、日本にいたジョバンニ・ニコロ神父から画法を習ったという。

3、李之藻と丁先生(クラヴィウス)、日本


 1601年頃、リッチは北京で重要な人物の一人、李之藻と出会った。リッチより13歳下の杭州生まれの李は、リッチの『山海輿地全図』などに非常に啓発され、リッチから数学に関することを学ぶようになった。李が、リッチのことを、敬意を込めて外で話したので、リッチたちに権威がつき、北京での活動がしやすくなった。李は、クラヴィウスの『日時時計製作法』によって、あらゆる日時計の作り方を習得し、それとともに薄い金属板を使った天体観測器(アストロラービオ)の作り方も習得し、その上、この技法について美しく明快な文章で図版も入れた本を著した。リッチは、李が出版した『アストロラービオ』(『渾蓋通憲図説』)を、ローマのイエズス会の総長と、クラヴィウス宛に二部送った。又、李は、クラヴィウスの『実用算数』を全訳し、平方根、立方根、九乗根などを開く方法も書き加え『同文算指』とした。1605年5月12日のローマのイエズス会士宛のリッチの手紙には、クラヴィウスの名が中国でも知られていることや、李之藻がたくさんの絵画を送ってくれたが、その一つをクラヴィウス師に送りたいと李之藻に伝えたこと、李もクラヴィウスのことをよくわかっているということを、クラヴィウス師に伝えてほしいと書かれている。クラヴィウスの方はというと、自らの数学書を、在明のリッチに献呈していたらしく、その本は、北京のイエズス会士の図書室であった北堂に20世紀にいたるまで保管されていたという。1582年にグレゴリオ暦の制定に関わったクラヴィウスは、ガリレオ・ガリレイだけでなく、中国(明)にいたリッチや李之藻ともつながりがあったということになる。ところで、クラヴィウスは、バンベルグ生まれのドイツ人で、ドイツ語では、クリストフ・クラウといった。クラウ(Klau)は、ドイツ語で「釘」の意味だったから、リッチは、クラヴィウスのことを、「丁先生」と訳した。だから、漢籍では、クラヴィウスは、「丁氏」とか「丁先生」として現れる。
 さて、いつ頃のことか正確にはわからないが、少なくとも1605年には、リッチは、グレゴリオ暦を中国の文字に移し変えていたという。リッチがこのように漢訳したものや、漢文で書いた書物を試しに日本に送ったところ、日本での宣教に効果的だというので、日本にいたパジオたちが、これらの漢文の書物を熱望した。そのとき所望されたのは『グレゴリオ暦』、『坤輿万国全図』などの世界地図、『交友論』、『天主実義』であった。

4、徐光啓と李之藻


 ところで、李之藻と同じく、徐光啓との出会いも、リッチにとって大切なものであった。リッチより10歳下で上海生まれの徐は、北京の宮廷で重要な職についていた。書物を重んじる中国(明)では、漢文で書物をあらわすことが効果的だと教えてくれたのは、この徐光啓であった。徐光啓と李之藻とリッチとの出会いが、その後に続くイエズス会士の活動の道筋をつけることになった。
 1610年5月11日、リッチが北京で亡くなると、李之藻は、皇帝に許しを得て、リッチのために墓所をつくった。また1616年に宣教師たちが迫害されたときは、李と徐が、勇敢にも宣教師たちを弁護した。1629年、北京に新しく暦局が開設されると、徐光啓はその局長に、李之藻はその次長になった。この地位を利用して、彼らは、以後の西洋人宣教師たちが半ば永久的にこの暦局に勤務する道を開き、これによってイエズス会士たちの北京駐在が制度的にも保証されることになった。このように、リッチと徐光啓・李之藻との交流がもとになって、明でイエズス会士たちが天文学的活動を継続的に行うよう方向付けがなされた。紆余曲折を経て、それは清の時代にも続き、そうした宣教師たちによる天文学の漢籍が、キリスト教禁教下の日本の天文学にも影響を及ぼしたのである。

5、1607年 マカオ、ポルトガル、オランダ、明、日本


 リッチが亡くなる数年前の1607年、リッチはイエズス会総長宛に、マカオでは、イエズス会の神父たちがポルトガルと日本、その他の連合軍でもって明を支配下に置こうとしており、その大将はラッザロ・カッターネオ神父であるとシナ人に吹聴する人間がいて、それをシナ人たちが簡単に信じてしまうと書いていた。リッチによれば、マカオのコレジオの周囲にポルトガル人たちが城壁を築いたのは、オランダに2回も襲撃されたからだという。カトリック国のポルトガルと、プロテスタント国のオランダの争いが、マカオでも繰り広げられていたわけであるが、ここで、ふと、文禄・慶長の役の合間に、日本の宣教師たちが画策した内容を思い出す。小西行長があの交渉を実行したのかはわからないが、「日本が攻めてくるかもしれない…」という不安におびえる明に、もし小西行長が、日本にいるイエズス会士による中国宣教の交渉をしていたとしたら。イエズス会とつながったポルトガルと日本が、明を支配下におさめようとしていると、明の人々が思うようになったり、そういう話を信じることになっても不思議ではない気がする。何にせよ、リッチは、身を守るため、マカオでの商業や収入のことはできるだけ隠して暮らしたという。

 ポルトガル国王とつながる反宗教改革のイエズス会がアジア宣教に出、日本の秀吉は朝鮮に出兵し、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントの戦いが続いており、その争いがマカオでも起こるような不安定な世界情勢の中では、様々のそれらしい噂や事実が流され、人々は、現代を生きる我々と同様、それらの情報に影響されたり、振り回されたりしたであろう。

(表題の絵は、マッテオ・リッチ像、wikipediaより)

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